2021-05-27

【特別寄稿:倉本聰】「そしてコージは死んだ」

倉本聰

--{新薬ができる望みもあります}--

 1年が過ぎ、2年目に入って抗癌剤の副作用が出始めて、治療はステロイドに切り替わった。この頃から苦痛はかなりのレベルに昴っていた筈だ。だが、無口な彼は周囲に決して弱みを見せなかったから、不覚にも僕らはその苦痛の激しさを見逃した。その年の11月。突然彼は自殺を計った。

 刃物で首を2カ所切断し、死にきれず今度は電動ドリルを心臓に突き刺して穴を開けようとした。それでもうまくいかず、たまたま訪れた他のスタッフが血みどろの彼を発見し、救急車で搬送され一命をとりとめた。

 僕は仰天し、旭川から飛んできてくれた緩和医療の担当の医師に、尊厳死協会の彼の会員証を示し、助からぬものなら麻薬を打って少なくとも彼を苦痛から楽にしてやってもらえないかと懇願した。

 実は。僕の義弟、妹の亭主は骨髄癌で十数年前死んだ。彼らは大阪に住んでいたのだが、二人共熱心なクリスチャンだった。骨髄の癌は想像に絶する苦しみに見舞われる。夫妻は丸2年間、強烈な苦痛と闘った揚句、二人で話し合い、有馬温泉にあるキリスト教系のホスピスに入る道を選択する。

 ホスピスでは大量の麻薬を投与される。苦しみからは解放されるが、死は確実に覚悟せねばならぬ。彼らは話し合い、その道を選んだ。僕はその時初めて、ホスピスというものの存在を知った。

 入院直後に有馬に見舞うと義弟の顔はそれまでと全くちがい、信じられないぐらい明るく転じて人が変わったようによくしゃべった。時には麻薬の副作用らしくトンチンカンな会話もまざったが、苦しみは一切彼から消えていた。ウソみたいでしょうと妹は言い、昨夜は夜中まで二人で賛美歌を歌ったの、と涙をかくして笑ってみせた。それから何と9カ月も生きて、義弟は息を引き取った。何とも和やかな死に顔だった。

 その記憶が僕には強烈にあった。だが富良野にはそういう施設はない。北海道全てを見渡してみても、数える程しかホスピスはない。

 大学病院の緩和ケアの先生は、判りましたと言ってくれた。それでも心配で内科の医師に相談した。その時返された医師の答えは、しかしまだ新薬ができる望みもありますから最後まで希望を捨てないように、だった。札幌の麻酔科医に電話したら、今頃内科はまだそんなことを言っているンですか!と怒った。

 86歳になり、死が現実のものとして近づいてきた今、僕は心底から考えている。

 死はもう恐くない。だが苦しむのは絶対にいやだ!  ホスピスが欲しい!  誰か近くにホスピスを作ってくれないか!

 1月。彼の癌は骨に転移した。それでも彼は苦しみに耐えながら、在宅での闘病を懸命に闘っていた。

 去年の11月の自殺未遂が、彼自身に相当響いているようだった。自分の始末をつけられなかったこと。周囲に迷惑をかけてしまったこと。大きな恥をかいてしまったこと。

 以前にも増して彼は無口になり、在宅のままステロイドの投与を受けていた。麻薬の投与も始まっているらしかったが、彼の苦痛の表情からは明快な効果は認められなかった。97から98あるべき血液中の酸素濃度がどんどん下がり、酸素ボンベは使っているものの、彼の形相はどんどん変わっていた。

 3月14日。酸素濃度が60まで下がり、耐えかねた彼は救急車を呼んで、富良野協会病院に自分から入院した。病院はコロナの臨戦態勢で、完全に面会禁止だったが、頼みこんで限定したスタッフの1名を、つき添いとして24時間、病室にはりつけてもらうことを許された。

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