2021-05-27

【特別寄稿:倉本聰】「そしてコージは死んだ」

倉本聰



 家に帰っても眠れなかった。

 様々なことが頭に飛来した。

 86年人生を生きて様々な死に僕は立ち会っている。祖父の死、父の死、祖母の死、伯母の死。それぞれがそれなりの苦しみを経て、最後の息を必死で吸おうとし、それが吸えなくて息絶えた。だが今回のコージの姿は、かつて見た中で類のない程、凄惨で残酷な時間だった。

 これは僻地の病院の事件で、しかも深夜の出来事であり、更にはコロナで逼迫し疲弊し果てている医療態勢の中でのことだったから致し方のないことだったのだろうか。

 僕にはそうは思えなかった。

 断わっておくが、その晩必死で対応してくれた看護師、遠くから指示を出してくれた医師、それらの医療関係者の対応を責めるつもりは毛頭ない。

 僕のもっともひっかかるのは人命尊重という古来の四文字を未だに唯一の金科玉条とし、苦痛からの解放というもう一つの大きな使命である筈の医学の本分というものを、医が忘れてはいまいかということである。

 人工呼吸、胃漏、透析、エクモ、エトセトラ。医学は目を見張る進歩を遂げ、人の生命を永びかせた。その功績は無論認める。しかし命を永びかせる、そのことに余りにこだわりすぎたため、植物人間の存在を生み、物理的生存を重視するあまり、たとえば尊厳死、安楽死の問題をタブーという檻の中に閉じこめて真剣な議論の俎上にすらのせないで逃げている。そのことに僕は違和感を感じる。

 果たして医はそういうものでいいのだろうか。

 たとえばコロナによる医療崩壊。

 入る病院が見つからなくて救急車で何軒もたらい廻しにされ、あるいは医師の手に触れることも叶わず、家庭で死を迎える不幸な患者。彼らはどんな死と対面するのだろう。それはやっぱりコージのような、のたうち廻っての死になるのだろうか。

 医学にその技術がないなら仕方ない。しかし、あるのに使ってもらえない。意識のレベルを下げることができるのに延命のためにそれも用いない。そういう延命はごめん蒙りたい。苦しさから解放され、一気に死にたい。そのために僕は、尊厳死協会に入会している。コージもまたそのために入会していた。

 その日の昼すぎ、コージはやっと息を引き取った。

 よかった!

 おつかれ様!

 という言葉しか、僕の頭には浮かばなかった。

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