「ヒートテック」誕生の原点となった発想
─ ところで大矢さんは1980年の入社ですが、大学を卒業して東レを志望した動機を聞かせてくれませんか。
大矢 グローバルに活動している企業に入りたいという思いを持っており、メーカーか商社を志望していました。東レと商社に受かり、様々な要素を考えた中で東レに入社しました。
ただ、後から振り返ると東レへの入社は知らずしらずのうちに、自分の選択肢に入っていたのだと思うんです。
それは何かというと、私は千葉県の九十九里の大網白里出身で、元々本家が機屋さんだったんです。今ではありませんが、昔は地元で「上総木綿」という木綿製造を手掛けていました。
7年ほど前、繊維事業本部長に就いた時に、大叔父に呼ばれて、本家の歴史について改めて教えてもらいました。本家には今も古い機械が残っています。
─ 繊維営業の中で、思い出に残っている出来事は?
大矢 私はナイロンの糸売りに携わっていましたが、担当者時代は女性用ストッキングの担当でした。
担当者時代の一番の思い出といえば、入社8年目くらいの出来事です。機能性の高い医療用ストッキングの繊維をファッション用高級ストッキングに活用して販売したところ、立ち仕事の多い女性の足がむくまないということで大ヒットしたんです。
他には、1990年代後半に中国が台東したことで、2002年に当社の繊維事業は単体で赤字に陥りました。国内の事業規模を縮小し、海外に展開することになったのですが、この時に若手を中心に、マーケットから発想して素材の用途創造をしようということになったんです。
その時のアイデアの1つが「合成繊維で肌着をつくろう」というものでした。実は天然繊維の中で最もマーケットが大きいのは、メンズの肌着です。その世界を、我々の合繊もマーケットにしていこうと。これも先程のZ世代と同じで、当時の若手の発想だったんです。私は長繊維部長として、いろいろオーガナイズしましたが、これが後に、ユニクロさんとの共同開発による「ヒートテック」につながっていくんです。これは私としてもエポックな出来事でした。
─ ヒートテックの成功は東レにとっても大きな自信になりましたね。
大矢 1つの商材の成功例として大きい。今は、保温肌着として一般名称化しましたからね。
─ 今、社内に対してはどんな言葉を投げかけていますか。
大矢 東レは自由闊達な会社ですから、社員にはチャレンジして欲しいと常に言っています。チャレンジして、時に失敗することも大事だと思うんです。
もう1つは、全ての仕事に対して、自分の全人格をぶつけて行動して欲しいということです。表面的に行動していると、相手に見抜かれますから。
─ それを実感した出来事はありましたか。
大矢 08年にインドネシアの現地法人で営業担当副社長として赴任しました。
特に苦労したのは債権回収でした。この時、インドネシアのお客様のところに1カ月くらい通ったのですが、なかなか回収できない。こういう時、理路整然と説明しても負けると思い、最後には日本語で、大きな声で「払って下さい!」と言ったところ、払ってくれたんです。
この言葉だけで払ってくれたというより、その前のプロセスの積み重ねがあり、その上で思いをぶつけたからこそだったのだと実感しています。