2023-11-30

富国生命・米山好映の原点回帰論「最大たらんよりは最優たれ」

米山好映・富国生命保険社長

全ての画像を見る



関東大震災の混乱の中、会社を設立

 富国生命は1923年(大正12年)11月22日に設立。今年は創業100周年という記念すべき年。会社設立の2カ月余前の9月1日には関東大震災が起き、死者・行方不明者は約10万5000人にのぼった。

 初代社長は出資者でオーナーの根津嘉一郎。日本の鉄道王といわれ、東武鉄道の創業者でもある。2代社長は根津と同じ山梨県出身の吉田義輝である。

 吉田は苦学力行の人。資本家・根津にその才と人物を認められての社長就任。と言うより、富国生命の基礎や経営理念を創ったのは第2代社長・吉田義輝である。言わば、実質的な創業者と言っていい存在。

 吉田がこだわったのは、『相互会社』という組織形態。保険の契約者が保険団体を構成して、互いに助け合うという社会的相互扶助が保険の精神という吉田の考えで、「株式会社では到底、ご契約者本位の徹底した経営はできない」と根津を説得。

 吉田が社長を務めたのは1940年から1943年の間。太平洋戦争の前半である。兵役に向かう人の家計を支える意味も込めて、当時の社名は『富国徴兵保険』であった。


不屈のリーダー・小林中

 吉田の後を受けたのが第3代社長・小林中(あたる)(社長在任は1943年から1951年まで)。

 小林は戦後の日本経済復興、そして発展に貢献したリーダーで、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)の初代総裁や、アラビア石油社長、東急社長、日本航空社長なども務めた人物。日本の復興期、そして高度成長期にその才を発揮、財界四天王(永野重雄、桜田武、水野成夫、小林中)の1人である。

 小林自身の人生も波瀾万丈であった。総合商社・旧鈴木商店の経営破綻をきっかけに起きた昭和金融恐慌(1927年=昭和2年)。その恐慌時に、台湾銀行(当時、日本政府の国策で設立された銀行)の債務処理に絡む『帝人事件』が起きた。

 台湾銀行が担保として持っていた帝人株の処理をめぐる、政治家と経済人の贈収賄事件という東京地検の見立てだったが、「被告は全員無罪」の判決。完全な冤罪(えんざい)であったが、永野護(元法相)、河合良成(元小松製作所社長)らと共に、小林も一時期、〝被告〟として取り調べを受け、留置された。

 小林は、全く身に覚えのない事と主張。事件の筋書きは東京地検のデッチ上げという裁判結果になったが、この事件の間中、根津は小林をかばい続け、その旨を司法当局にも訴え続けた。

 その後、戦後日本の礎を築く仕事にあたった小林の名は、『不屈のリーダー』として、財界史に刻まれている。

 小林は敗戦を機に、社名を富国徴兵保険から、今の富国生命に変更した。

Pick up注目の記事

Related関連記事

Ranking人気記事