2023-06-15

田代祐子・アコーディア・ゴルフ会長「日本社会に風穴を開けるカギは女性」



子育てをしながら大学に通う

 ─ その大学には何年間通ったのですか。

 田代 6年になります。最初は1週間に3~4時間勉強し、1つずつ単位を取っていきました。大学には保育所もありましたので、子育てと勉強の両立もうまくできました。

 ─ その後、大手会計事務所のKPMGに入りましたね。

 田代 大学を卒業して、まさか自分がKPMGに入るとは思ってもいませんでした。大学には会計学専攻生の集まるクラブがあり、そこではリクルーティングなどのイベントがあります。ある時、イベントで、KPMGのパートナーと会ったのです。そして彼から「日本語ができるのならKPMGに来ないか」と誘っていただきました。

 本当に驚きました。当時、私は日本人であるとか、日本語ができるということが、米国社会の中では何の価値もないと思っていたからです。そんなとき、突然、日本人であることに価値が出てきたわけです。

 ─ KPMGに入所してから、どこで働いたのですか。

 田代 ケンタッキー州でした。その理由は1985年にトヨタ自動車がケンタッキー州に進出すると発表したからです。トヨタの発表を受け、サプライヤーも何十社とケンタッキー州に工場を作ろうと動き出しました。そこでKPMGのケンタッキー州のパートナーが日本語のできる人材を探していたのです。

 このチャンスを逃したくない─。そう考えた私は家族を説得し、引っ越しました。夫の家族はトレドに住んでいましたから、夫の理解がなければできなかったと思います。ただ、夫は私に何を言っても無駄だと諦めていましたけどね(笑)。一番抵抗したのは子どもたちでした。

 ─ 仕事は忙しかった?

 田代 ええ。ホンダは80年にオハイオ州に進出済みでしたが、トヨタの進出を皮切りに、一斉に日本の自動車メーカーが米国に進出してきました。そこの仕事に携われましたので、素晴らしいキャリアを積むことができました。お客様がどんどん増えて責任も増えました。

 製造業のお客様が多かったので、例えば技術一筋の工場長が会社から「米国工場を作れ」と言われるわけです。銀行や商社の方ではないので英語ができない。そういった方が米国で工場を立ち上げるわけですから、そこを私たちがお手伝いすると。

 地方自治体と交渉して工場用の土地を購入し、工場で働く米国人を雇って生産ラインを動かすわけです。技術者の方が2人くらいの仮事務所から始めて、最終的には500人規模の工場をつくる、そういったサポートを15年間やりました。

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