2023-02-15

【母の教え】日本M&AセンターHD・三宅卓社長「吃音に悩んだ幼少期からのびのびと育ててくれた母。感謝の一点です」

三宅卓・日本M&Aセンターホールディングス社長

「私の欠点を欠点と感じさせずに、のびのびと育ててくれました」と話す、日本M&Aセンターホールディングス社長の三宅卓氏。流暢に話す姿からは想像できないが、幼少期から社会人になるまで、吃音に悩まされたと振り返る。ただ、母の滋子さんは治療に心血を注ぎながらも、のびのびと話すことができる環境をつくってきたという。三宅さんが語る、母の姿とは。

【あわせて読みたい】コメ兵ホールディングス・石原卓児社長「『常に謙虚に、誠実でいなさい』という母の言葉を常に胸に置いて」


好奇心が旺盛で元気な女性

 私の母・滋子は1928年(昭和3年)1月18日、大阪府で生まれました。私が1952年(昭和27年)1月18日生まれですから、生まれの日付も干支も同じという偶然があります。母には10歳違いの兄がいます。

 母の両親、私の祖父母は敬虔なクリスチャンで、母の兄も、母もクリスチャンです。

 母方の祖父は建築関係の会社を営んでおり、日本のみならず旧満洲にも渡って成功をしていましたから、母は子供時代からピアノを習うなど、比較的豊かな生活ができていたようです。旧制女子専門学校を卒業した後、大阪・箕面の中学校で国語教師となりました。

 母は非常に元気で明るい女性です。95歳になった今も、よく喋り、オシャレであり続けています。好奇心も旺盛で、今もものすごい勢いで本を読み続けているんです。

 父の昇は滋賀県出身で、気象庁に務めていました。父方の祖父と父の兄も中央気象台、父の弟は製薬会社という理系一家です。母とは知人の紹介で知り合ったと聞きました。

 私は長男として生まれましたが、幼少期は体が弱く、本当によく病気にかかっていました。小学校1年生の時には急性脳膜炎で死の渕をさまよい、その後には軽い結核にかかり、中学校1年生の時には急性腎臓炎で入院したりと、頻繁に病院のお世話になっていたんです。

 さらに、今は取材や講演など人前で話をすることが多いので驚かれるのですが、子供の頃から吃音がひどく、社会人になってからも続きました。実は今もそうなのですが、後天的にカバーする術を身に付けたことで、今は人前で詰まることはなくなりました。

 子供の頃は母によく病院に連れていってもらい、原因が肉体的なものなのか、精神的なものなのか、調べてもらっていました。さらに口の動きをよくするためのリハビリに、家で母と一緒に取り組んだものです。

 それでも努力の甲斐なく、状態はよくなりませんでした。例えば小学校、中学校時代に国語の授業で指されて教科書などを読むことがあると思いますが、言葉が出ない状態でしたし、大学生時代に駅の窓口で切符を買う際にも、行き先を言えずに立ち往生するくらいでした。

 ただ、母が非常に熱心に治してくれようとした情熱は本当にありがたかったですし、上手に喋ることができないといっても、私にそれを欠点と感じさせないくらい、のびのびと育ててくれました。

 母は私に本当に欠点を言わない人でした。例えば私は音楽が非常に好きなのですが歌が下手なんです。しかし、浪人時代に友人に指摘されるまで、そのことに気づくことがありませんでした。

 母に聞いたところ「前から知っていたよ」と(笑)。のびのびと喋り、歌いながら育つことができたのは母のおかげです。

Pick up注目の記事

Related関連記事

Ranking人気記事