2023-03-20

《日本を代表するアパレルチェーン》アダストリア・福田三千男会長を直撃!

福田三千男・アダストリア会長

「価値のある商品をつくり、きちんと販売すれば売れる」─―。『グローバルワーク』や『ローリーズファーム』など、30を超える様々なブランドを展開するアダストリア。実質的な創業者である福田氏は、国内外で約1400店舗を展開するカジュアルファッション専門店チェーンを一代で築いてきた。様々な試練を経て、「時代の環境に合わせて、ビジネスモデルや会社の仕組みを変えていく」と語る福田氏の挑戦者魂とは─―。

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全国の地域一番店を視察することから始めて



 ─ 会社設立から今年で70周年を迎えるアダストリアですが、70周年の思いを聞かせてもらえますか。

 福田 当社は1953年(昭和28年)10月、わたしの父が茨城県水戸市に『福田屋洋服店』を設立したのが始まりです。

 もともとは、わたしの祖父が明治から昭和にかけてユーズド(古着)を売る商売をしていました。大正時代は男性も女性もみなユーズドが多くて、それで収益を上げていたんです。

 それが戦時中に閉鎖になり、戦後たまたま良い場所が空いていたので、またオープンしたんです。その後、1950年に朝鮮戦争が勃発し、大変な特需に見舞われたわけです。

 ─ 若い読者のために言うと、米国が戦略物資を日本で大量に購入することになり、日本は好景気に沸いたんですね。

 福田 そうです。この時、父は景気が良くなったのでどんどん仕入れをしたのですが、米国が戦略物資の買い付けを停止したことをきっかけに不況になってしまった。一気に売価が半値になったそうで、また店をたたむことになりました。

 そこから父は借金の返済に追われるわけですが、この時に倒産でご迷惑をおかけした方が半分を出資してくれ、援助をいただき、紳士服店を再開したのが1953年ということです。

 この頃、わたしはまだ小学校に上がったばかりでしたから、当時のことはほとんど覚えていません。でも、後に父はこの時期はかなりしんどかったと言っていましたね。

 ─ 戦後の混乱もあり、お父さんは相当な苦労があったでしょうね。

 福田 父が言っていたのは、それまでうちに来ていた人たちの買い物をする場所がなくなって、かなりお困りになったと。また、取引先も売る場所がなくなったということで非常にご迷惑をおかけしてしまいました。

 それから、働いていた方々に給料を4カ月くらい払うことができなかった。父はすごく後悔したそうです。だから、後にわたしが商売をやって店をつくると言ったら、父は嫌な顔をしていましたね。

 ─ 息子に苦労させたくないという親心ですね。

 福田 ええ。ですから、そこから20年、父は無理をせず、堅実な経営に徹していました。

 わたしは大学を卒業後、紳士服の販売店に2年ほど就職してから水戸に帰ってきました。その時、真っ先に始めたのは日本全国を回って、売れている紳士服店を見て歩くことでした。

 まだ本土に復帰していなかった沖縄を除き、1年くらいをかけて日本全国をほぼ見て歩きました。当時、地域一番店と言われるのは年商1億円くらいだったので、そういう店に入って、店主からいろいろな話を聞かせてもらいました。

続きは本誌で

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