2022-08-01

【私の帝国ホテル史】帝国ホテル・小林哲也元社長の「わたしの大事にしてきた言葉は『セレンディピティ』」



ビートルズは帝国ホテルに宿泊するはずだった?

 来日したビートルズが宿泊場所として選んだのが「東京ヒルトンホテル(現ザ・キャピトル東急ホテル)」ですが、実は当初は帝国ホテルに宿泊する予定だったのです。ところがそれを後に社長となる犬丸一郎さんがお断りしたのです。このことは、東京ヒルトンホテルの総支配人だった方から聞きました。

「哲ちゃん、ビートルズがうちに来た、来たと言ってくれているけれど、実は犬丸さんが断ったからうちに来たんだよ」と。

 犬丸さんには、ビートルズのファンがホテルの周りに集まり群衆ができると周辺の方々やご宿泊されていらっしゃる方々にご迷惑をかけてしまうかもしれない。そんな判断があったのでしょう。後日、犬丸社長に真意を尋ねました。すると「そんなこともあったかな」。はっきりとは言いませんでした。

 ただ、断ったのには理由があったのです。犬丸さんの脳裏には1954年に来日した米国の大女優、マリリン・モンローが帝国ホテルに泊まったときの大変な苦労が思い出されたのでしょう。マリリン・モンローが大リーグのスーパースター、ジョー・ディマジオと結婚し、その新婚旅行で来日してきたのです。

 すると、マリリン・モンロー見たさに帝国ホテルの周りを群衆が囲み、日比谷公園などを中心に大混雑となりました。当初、2人ともプライベートの新婚旅行でしたから静かに過ごそうとしていたのですが、あまりにも取り囲む群衆が多かったものですから、2人がバルコニーに出て挨拶をしたのです。凄まじい大歓声だったようです。

 そんな裏話を聞くことができたのも、わたしが帝国ホテルを就職先に選んだことで、帝国ホテルとの“縁”ができたからに他なりません。そもそも、なぜわたしが就職先に帝国ホテルを選んだのかをお話しましょう。

 高校時代、野球部の練習をサボってふと手にしたのが『親鸞』という本でした。読み出したら止まらなくなり、ついに読書に目覚めたのです。そして読書を通じて「人間って面白いな」と人間に興味を持ったのです。

 それで就職活動をするに当たって、できるだけ人間と関わり合いの多い仕事がしたいと考え、それならホテルがあるなと思いました。そして、ホテルと言えば帝国ホテルだろうと。後から知ったのですが、それまで帝国ホテルの採用は紹介が主。当時は採用人数が少なかったのです。

 ところが私が入社試験を受けた1969年は、翌年の本館のオープンに備えて建て替えの最中。1923年に建ったフランク・ロイド・ライトの建物を壊し、270室から約800室に拡大する予定でした。部屋数が増えますから人員も必要になります。とても紹介採用だけでは間に合わなかったのです。

 そして、わたしは公募第1期生として採用されました。この頃の日本はまさに高度経済成長期。翌年のオープン時の1970年には大阪万国博覧会が控えていました。ですから、景気も良くて帝国ホテルとしても拡大しているところだったのです。

 帝国ホテルでも建て替えによって現本館がオープンした1970年の上期平均稼働率が92%。新本館の客室数777室に加え、別館の150室と東館の350室の計約1300室で92%ですから凄い状況でした。

 ところが、山高ければ谷深し。同年下期の平均稼働率は一気に60%台まで低下しました。いわゆるポスト万博です。万博に合わせてドンッとインバウンドの訪日客が来たのですが、万博が終わるとパッといなくなった。

 部屋数も多かったこともあり1970年通年の平均稼働率は76.8%。もはやこの段階で利益が出ない状況となっていました。さらに翌年の1971年になると稼働率が下がり、1972年通年では69.7%にまで落ち込みました。ところが1972年から潮目が変わります。

 わたしはここで帝国ホテルの凄さを知ることになりました。というのも、この年から年間の平均稼働率が80%を超えてくるのです。1973年に第1次オイルショックが起き、1974年には田中角栄内閣の列島改造政策による地価・物価の高騰、賃金の上昇、金融緩和による過剰流動性が重なり、インフレが一気に加速。狂乱物価と呼ばれる現象が起こりました。

以下、本誌にて

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