2023-09-05

【米国進出50年】キッコーマン・茂木友三郎名誉会長に直撃「米国でもしょうゆは伸びるという確信があった」

今年6月、米国における生産拠点がグランドオープニングから50周年を迎え、記念イベントで挨拶をした茂木氏



企業の新陳代謝の重要性

 ─ 一方で日本国内に目を移すと、民間企業の生産性向上が大きな課題になっています。

 茂木 バブル経済崩壊後、日本経済は低迷を続けました。しかし、安倍晋三元首相がアベノミクスを打ち出し、「3本の矢」という政策を実行しました。第1の矢が大胆な金融政策、第2の矢が機動的な財政政策、そして第3の矢が民間を喚起する成長戦略でした。

 金融と財政はかなりうまくいき、経済はかなり戻ってきました。これはアベノミクスの効果です。私もその点は評価されるべきだと思います。ただ、第3の矢の構造改革が十分ではなく、かなり積み残されたところがあったということだと思います。

 構造改革は非常に難しく、そう簡単にはできないということですから、かなりの腕力が必要でした。これはある程度時間をかけてやっていかなければなりません。最悪の事態から脱却できたとはいえ、日本の経済成長力は弱いですからね。規制改革などを進めることによって経済成長力をつけていかなければなりません。

 ─ その構造改革の前に、金融緩和でゼロ金利が続き、マイナス金利だから企業は生き残っていると指摘され、ゾンビ企業という言葉も出てきています。

 茂木 日本経済の最大の問題は新陳代謝です。新陳代謝が起こらないから経済成長しないのです。新陳代謝というのは市場の中に新しい企業が入ってくると同時に、今まで市場の中にいた企業が外に出る、脱落するということを意味します。そうでなければ新陳代謝は起こりません。その脱落が問題なのです。

 その点、脱落ではなく、うまく退出してもらう形にしなければなりません。それが政府の役割です。新しいベンチャービジネスをつくる施策も必要ですが、既存の企業が市場からうまく退出できるようにするという政策も重視していかなければなりません。そうでないと労働力がその会社に張り付いてベンチャーが生まれてきませんからね。

 ─ 新しい企業を生み出し、役割を終えた企業は市場から退出してもらい、産業の新陳代謝を進めていくわけですね。

 茂木 はい。そうしないと、新しい企業が人を採用しようと思っても採用することができなくなってしまいます。人が採用できなければ事業になりません。ですから、まずは市場から退出すべき企業にスムーズに退出してもらうというのが政府の役割になるのではないでしょうか。

 ─ その際に注意すべきことはどんなことになりますか。

 茂木 労働市場をしっかり充実させることです。潰れた会社の中で働いていた人がすぐ新たな職場を見つけられるようにする状況をつくることです。これは失業率を低くすることにもつながります。それから新しい訓練ができる環境整備も必要です。

 次の仕事を見つけても訓練が必要な場合には、その訓練場所を整備することが大切です。米国にはそういったものがあります。次の就職先がすぐに見つかるし、そのために勉強したいことを自分で勉強して身に付けられます。日本にはそれがほとんどありません。


建設を主導した米国工場

 ─ 茂木さんは前回のインタビューで若い人がもっとリスクを取って挑戦すべきだと提言し、実際に茂木さんも若い頃に挑戦しました。今年6月、キッコーマンの米国工場のオープニングから50年が経ち、茂木さんはその工場立ち上げに奮闘しましたね。

 茂木 そうですね。本当にあっという間ですね。キッコーマンが米国中西部のウィスコンシン州にしょうゆ工場を建設して初出荷したのが1973年。私は当時38歳でした。

 ─ そもそも茂木さんが米国でしょうゆが受け入れられると思ったのはなぜですか。

 茂木 50年前の米国でもしょうゆの需要は伸びるだろうという、ある程度の確信がありました。既に米国に販売会社をつくってしょうゆの販売を始めていたのですが、ずっと赤字。黒字化には現地生産が理想でした。

 では、工場をどこにつくればいいのか。米コロンビア大学大学院に留学していたときもウィスコンシン州に行ったことはありませんでした。名前を知っていたくらいです。それで実際に足を運んでみると、本当に牧歌的な景色が広がる農業地域でした。

 ─ 小麦の一大生産地です。

 茂木 はい。トウモロコシが主体ですが、もちろん、大豆や小麦もできます。しかも、非常に労働力の質が良く、現地の人々は勤勉でした。この勤勉さがウィスコンシン州に工場を建設すると決めた大きな要因の1つです。

 ─ ただ、工場の建設に当たっては地元の住民も戸惑ったりしなかったのですか。

 茂木 反対の声はありました。それは、キッコーマンが日本の企業だからとか、しょうゆの工場だからなどではなく、これまで工場など全くなかった農業地帯の真っ只中に工場ができるわけですからね。地元の方々からすれば、1つ工場ができると、次々と工場ができてしまうのではないかと心配したわけです。

 ─ どのように理解を求めていったのですか。

 茂木 「我々は農産業だ」と説明して回りました。要するに当社の事業はアグリビジネスだと。しょうゆは大豆や小麦を原料にするものですから、皆さん方とは共存共栄なのですと訴えました。私どもの商売がうまくいけば、皆さんの作物も増えますと。理解が広がるまで2~3カ月くらいかかりましたね。

 ─ 当時の茂木さんの役職は課長でしたね。

 茂木 海外事業部グループ長でした。いわゆる課長職でしたが、米国工場に関するプロジェクトを任されました。直属の上司は取締役海外事業部長。工場建設のゴーサインが出たときは本当に嬉しかったですね。しかし同時に緊張しました(笑)。


グローバル経営の礎

 ─ トヨタ自動車工業(当時)がケンタッキー州に工場を建設したのは1988年。日本の企業で米国に工場を建設していた企業は少なかったですね。

 茂木 そうですね。自動車業界ではホンダが一番早かったですが、当社はそれよりも10年ほど早かった。我々と同じ時期に米国で工場を稼働させたのはソニー(現ソニーグループ)と吉田工業(現YKK)でした。ですから、ホンダが工場を建設するときには、ホンダに頼まれた取引先の銀行員が当社の資料を集めに来ていました。

 ─ この米国工場がキッコーマンのグローバル経営を引っ張っていきました。

 茂木 ええ。米国進出の成功を足掛かりに、ヨーロッパや中国などにも進出し、今では海外に8カ所の生産拠点を構えるまでになりました。そして、2023年3月期の当社の売上高のうちの7割以上、事業利益の8割以上が海外になりました。海外事業のうち約7割が米国です。

 ─ 茂木さんは米国留学中に、しょうゆが肉によく合うと感じていましたね。

 茂木 そうですね。留学中に現地のスーパーでデモンストレーションのお手伝いをして、しょうゆというのは面白いと感じました。それまでしょうゆを知らなかった米国の方々が試食して「おいしい!」と目を輝かせたわけですからね。この体験がしょうゆの国際化に力を入れるきっかけになりました。

 米国工場は形になりました。ですから、私にとってはこのときの若い頃の挑戦が仕事に対する自信にもつながりましたね。

(了)

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