2023-04-22

【倉本 聰:富良野風話】文明の墓場

今から50年ばかり前の話だが、築地から有明のあたりをドライブしていて、夜、夢の島に迷いこんでしまったことがある。恐らく東京都の出すゴミによる埋立てが始まって間もなくの頃だったのだろう。ふと気がつくと周囲は一面、ゴミの山塊であり、廻って来たパトカーに咎められて、ここらは犯罪の多発地域だからすぐ出なさいと注意された。

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 その後、昼間に訪れてみたが、次々にやってくるダンプやトラックが凄まじい量の瓦礫や紙・布、更には食糧のゴミまでを次々に地べたに放り捨てて行って、無数のカラスやカモメなどが喰いものを漁って群れとんでいた。何故このゴミの集積地を夢の島と呼ぶのかと首をひねったが、今そのあたり一帯がものの見事に埋め立てられ、多数の高層ビルが林立して湾岸地区として生まれ変わったのを見ると、成程、だから夢の島だったのかと今更のように思う一方、あれらの華々しい新開地が東京湾に捨てられたゴミの山、いわば東京の排泄物の上に建てられた、いわば砂上ならぬ廃棄物上の楼閣であることを想う時、その地盤は本当に大丈夫なのかなと、余計な心配をしてしまう。

 この春行われるG7サミット。その前座として札幌で開かれる環境サミットに、富良野自然塾から何か展示ブースを出してくれと要請されて、凡そブラックな「文明の墓場」というブースを出すことに決めたのは、50年前のあの夢の島の造成現場の姿が頭のどこかにあったからである。

 経済・文明の発展はまちがいなく無数のゴミを出す。新しい家電、自動車、テレビが生まれる度に古くなったものは廃棄される。一部はリサイクルされるというが、そんなものは微々たる量である。殆んどは廃棄され、それは焼却・投棄・埋立てという方法で人の目から触れぬよう姿を消す。だがこの姿を消すものたちが、姿を消す時、地球の上にCO2をまき散らしていく。

 カーボンゼロを目指す試みが、旧製品を消すために無数のカーボンを放出する。自動車の終末、アパレルの終末、OAの終末、紙の終末、建造物の終末、医療の終末、食の終末、そして核の終末。それらを文明の墓場として一つの墓地に集約してみたのだが、ふと考えるとこの墓地、彼らを悼むために訪れる人もなく、涙する者も全くいない。

 ばかりか、核の終末に至っては、詣る人はおろか、遺体を引き取ろうとする人も全くおらず、散々世話になったその遺体を、どの自治体も見て見ぬふりである。

 何とも情けなく、何とも哀しい。日本人は一体いつから、こんな忘恩の、卑怯な民族になってしまったのか。己を含めてそんな慙愧を、何とか多少とも懺悔しようと、そんなブースを作ってしまった。

 しかし周囲に群がるブースは、水素自動車やペットボトルのリサイクルや、その作業で更にカーボンを排出してしまう、そういう環境的展示物ばかりである。墓仕舞いどころか、墓地はまた拡がる。

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