2022-12-17

【倉本聰:富良野風話】ライトアップ

かくいうこの自分もその過ちをかつて犯したことがあるからいうのだが、当節流行りのライトアップ。あれはどうもよくない。

【倉本聰:富良野風話】戦争

 一晩。それも短い時間。5分とか10分パッと照らしてすぐに消すぐらいならまだ許せるが、古刹の庭とか深山の谷間とか、秋の風物詩・紅葉の光景を夜、長時間ライトで浮き上がらせ、そこに凄まじい数の見物人が集まり、ひどい所ではそれで金をとる。あんな浅ましい情景はイヤだ。

 木も夜は眠る。その寝姿をあからさまに公開し、テレビやらインスタ映え部族やら、これでもかと世間に公表する。言ってみれば美女の寝姿を公然と世間に曝しているようなもので、行為自体がまずはしたない。風雅も侘び寂びもあったもんじゃない。芭蕉が見たら怒るにちがいない。

 そも紅葉の美しさは、光が上から射すところにある。日光に映える美しさ、月光の靑さに映える美しさ。それを下から上向きに光を当てるのは、女性の体に下から光を当てる行為に似ている。いうなれば紅葉のポルノである。それをわいわいキャアキャアと群がり、きれいだきれいだと騒いでいるのを見ると、あんたたち本当の自然の美しさを判っているのか、と怒りたくなる。

 たとえば深夜の紅葉の森に一人こっそり立ってみたまえ。

 昼間見た紅葉の赤や黄の色彩が闇の中に蒼黒く沈み込んでいる。時折、雲間から月がのぞくと、そこに潜んでいる赤や黄色が脳裏にはっきり蘇ってくる。

 秋の濃厚な森の匂いがする。どこかで牝ジカを求めて吠えるケーンという哀しい牡ジカの声がひびく。運が良ければその角の先が熊笹の向こうで月光に光る。心の中に満開の秋が充ちる。その心の中の情感のふくらみ、想像の膨張と感情の昂まりが、古来この国の昔人の侘び寂びに通じる心の文化を創ってきたのではあるまいか。

 ライトアップやらプロジェクションマッピング。余計な光が自然を犯し、本来の自然を破壊しつつある。ネオンに輝く都会の光は、空の光の美しさを消し去り、昔見えていた天の川の姿は今の都会では殆んど見えない。

 ホワイトイルミネーションという立木の電飾。実はあの原型を僕はこっちで初めて見た。マイナス30度近い深夜、というより早朝。人気ない田舎道を車で走っていると、ヘッドライトに浮き上がった木が、無数の小さな光の粒を枝先きいっぱいに放つことがある。恐らく枝先きについた氷滴や樹液がヘッドライトの光茫に反射してキラキラ無数の光を放つのだろうが、僕はこの現象を〝樹の星〟と呼んでいる。ホワイトイルミネーションを発想した人は、多分〝樹の星〟を見た人にちがいない。実際は一粒がもっともっと小さく何とも神秘的な輝きである。

 電気はこうした原点を忘れさせ、金はかかるし、ついでに地球の環境を少しずつ異な道へと誘導している。

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