ニッカウヰスキー最後の日
── 需要の創造はできるということですね。もともと勝木さんはニッカウヰスキー出身ですね。その志望動機とは。
勝木 実家が酒屋だったものですから、お酒の知識はそれなりにありました。就職先もお酒のメーカーだなと思い、必死になって就職試験を受けたのです。その中で最初に内定の連絡をいただいたのがニッカでした。
── 勝木さん自身が北海道出身ですから、ニッカに対する親しみもあったでしょうね。
勝木 北海道人として竹鶴政孝さんが創業したニッカは憧れの企業ですし、1972年に行われた札幌オリンピックで金メダルを獲ったニッカ所属のスキージャンプ選手・笠谷幸生さんの印象も凄く強かったですね。
── その後、アサヒグループの子会社になるということで、当時は不安を抱いていたと。
勝木 はい。ニッカの最終日の2001年3月31日、同僚と飲みに行って「もう終わったな」と言って、濃い水割りを飲みながらさめざめと泣きました。「明日から目を伏せて廊下の端っこを歩くんだぞ」とか言いながらですね(笑)。でも実際はそんなことはありませんでした。プロパー社員と同じでしたね。
実はアサヒビールは1990年くらいから中途採用を凄く増やしていました。ですから、当時の日本企業としては珍しいくらい、いわゆるダイバーシティ&インクルージョンが進んだ企業だったのです。特に、ニッカが完全子会社化されたとき、当時のアサヒビールの社長は「統合10カ条」の第1条に「社員を出身で差別することは許さない」と掲げていたのです。
このことを後になってから知りました。こういう組織のトップの意思があって、組織の文化があって、我々を温かく迎え入れてくれたことに気づいて2度目の涙を流しましたね。
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