2021-07-15

日本特殊陶業会長・尾堂 真一氏の【母の教え】

尾堂真一・日本特殊陶業会長

「正論で生きた父、兄弟思いの母の生き方は、わたしの人生の1つの軸になっています」
日本特殊陶業会長 尾堂 真一 Odoh Shinichi


「今になって、父や母の心情、心境、苦労も含めてわかる気がします」と語るのは、市場の成長に合わせて海外拠点を拡充させ、エンジンに不可欠なスパークプラグで世界トップシェアを誇る日本特殊陶業会長の尾堂真一氏。会社の人間関係で悩んだ父、8人兄弟の長女として一家をまとめた母の教えは、企業経営にどう活かされているのか──。


散歩中、独り言を
こぼしていた父

 わたしは鹿児島市照国町(てるくにちょう)で生まれました。照國神社という島津斉彬を祀った神社のすぐ近くで、また照国町には平田靱負(ひらたゆきえ)という、江戸時代に徳川幕府から命じられて岐阜県の治水工事の指揮を執った薩摩藩の家臣を祀っている平田公園という公園もあります。

 家が照國神社と平田公園の中間地点にあったので、小さい頃はよくそこで遊んでいました。

 父・貞男は妹の夫が経営する家具屋に勤めていたので、工場の中に家がある環境で育ちました。家には、家具をつくるお兄さんたちがたくさんいて、母はお手伝いさんたちと一緒に、その人たちのために大きなかまどでごはんを炊いたり、お風呂を沸かしたり、総勢20人近い人のお世話をしていました。

 わたしは4つ上の姉と2つ上の姉がいる長男でしたが、家にいても遊び相手もいないので、いつも外で遊んでいました。

 家の庭には、家具に使うために四角に切った5メートルぐらいの木が干してあるので、そこに登ったり、友だちの家に行ったり、母に遊んでもらった記憶はほとんどありません。

 母の食事の支度が終わるのが夕方5時半頃。わたしは毎日6時頃、ノコノコと家に帰っていました。

 母・恵美子は8人兄弟の長女で、現在95歳。女4人、男4人の兄弟で、弟や妹たちとは年の差もあり、いろんな兄弟がいるので、何か困ったことがあると、皆、母に相談に来ていました。

 母は鹿児島の市来町(いちきちょう)の出身で、当時は湯之元町と言われる温泉街で生まれました。

 湯之元町は国鉄スワローズ(現ヤクルトスワローズ)のキャンプ場所だったので、金田正一を見に、練習場にもよく行っていました。

 母の実家は、祖父が製紙業で成功して山や馬を買ったものの、その後、事業に失敗して、最後は食糧、主に食肉を販売していました。

 母は高等女学校卒業後、満州の郵便局に就職し、戦況が悪化する前に鹿児島に帰ってきたそうです。

 父・貞男は、市来町のもっと北の伊集院という場所の出身。父方の祖父が鹿児島へ出てきて青果商を始め、そこで父は生まれました。男3人、妹1人の兄弟ですが、なぜか長男は山口県に養子に出され、事実上、父が長男として育てられました。

 詳しくは知らないのですが、父と母はおそらく見合いで結婚し、新照院町(しんしょういんちょう)という所で生活を始めます。わたしの本籍も今もそこにあります。

 前述のとおり、妹が家具屋の社長と結婚し、父はその家具屋の経営に参画し、生産現場の工場を担当しながら、お店で家具の販売もしていました。

 その家具屋は昔、天文館の真ん中にありましたが、今は妹の息子の世代に移り、場所を変えて今も鹿児島県内で営業しています。

 父は読書家で頭もよく、弁も立ちましたが、真正面から正論を言ってしまうところがあり、よく家具屋の社長と揉めていました。難しい立場で仕事をしていたのでストレスもあったのか、大酒飲みで身体を壊し、わたしが20歳のときに亡くなりました。

 戦時中の手術での輸血が原因で肝臓が悪くなったのですが、毎晩お酒を飲んでいたので肝臓が悪化してしまったようです。

 父はお酒を飲むと独り言のように人生についてしゃべり出し、母に「うるさい」と言われると、外に散歩に出かけていました。

 すると、母に「事故があるといけないから、後ろから付いて行きなさい」と言われ、父の後ろをひょこひょこ付いていったのを覚えています。

 父は散歩中も独り言を言っていて、1時間ほど家の周りをグルグルして帰ってきます。

 父の散歩は夜だけでなく朝もありました。朝5時から散歩に行くので、そのときも母から「付いていきなさい」と言われ、朝の散歩にも同行していました。おかげで、いまだに早起きの習慣が残っています。

 当時は子どもだったので、父が何を話しているのかよくわからなかったのですが、お店や会社のことを真剣に考えていることは伝わってきました。会社を大きくするにはどうすればいいのか一生懸命考えていました。

 そうした思いの表れか、テレビで店の宣伝をして、気に入らないことがあると、「あの宣伝はおかしい」「あれは違う」と局の担当者にすぐ電話をかけていました。

 わたしも自分の信念に反することがあると黙っていられないところがあるので、この性格は父譲りだなと感じます。

 父は会社の人間関係、母はいつも「お金がない」と家計のやりくりに苦労していたので、今になって、父や母の心情、心境、苦労も含めてわかる気がします。

日本特殊陶業の【水素社会】に向けた新規事業

Pick up注目の記事

Related関連記事

Ranking人気記事