「減損会計」で自社ビルを売却する羽目に
「自分らで商品をつくって、ある程度自社ビルで売りたかったんや。それも最高のサービスでね。そうやって手を打ってきたのに、減損会計プラス大店法がなくなってね。時価会計の導入も大きかったし、大店法の廃止の影響も大きかった」
「大店法」が無くなることとも相まってか、商店街がさびれ百貨店ルートの開拓に力を入れていかざるを得なくなった。
「百貨店にシフトせなアカン。その作業でネガティブな状況になり、利益率も落ちる。そこで同時に全国にミキハウスビルを建てて、サービス満点でいいものを売ろうと考えていた矢先に減損会計が入ってきてしもうて」
減損会計。企業会計で資産の収益性が低下して、投資の回収が見込めなくなった場合、その資産の帳簿価格にその価値下落を反映させる措置である。
日本経済全体は1990年代初めのバブル崩壊で“失われた20年ないし、”失われた30年“という低迷期に入った。
そして、97年、98年大銀行や大手証券の一角が経営破綻するという金融危機を迎える。当時の都銀はじめ、公的資金が銀行に注入されたりした。
2000年初め、三菱UFJ、三井住友、みずほフィナンシャルグループとメガバンクへと金融再編が進んだが、なお、金融界は不安定な状況が続く。
銀行の自己資本比率向上が言われ、その反動で“貸し渋り”、“貸し剥がし”といった現象も出現し、産業界も混乱した。
こういう時に、「固定資産の減損に係る会計基準」が導入され、2006年3月期から強制適用となった。
「うちは自社ビルを全国に持とうと動きました。札幌、仙台、東京の原宿、静岡、名古屋、大阪、神戸、博多、熊本、長崎とこれだけ自社ビルがあった」
自社ビルの中にミキハウスの店舗と子どもを対象に教育関連事業をやる施設をつくろうという木村の考えであった。
「それとインバウンド対応で、どんどん海外から来た人のご案内とか、荷物の預かりとか、いろいろなサービスをやる百貨店にできないサービスをそこでやって、独占しようと考えていたわけです」と木村。
ところが、商品は売れて事業は順調なのに、土地で評価損を出しているというので、取引銀行からも「減損会計をやってくれ」と矢の催促。
全国に自社ビルを建てる時に、銀行から借り入れをしたのは事実。土地を売買するために借金したのではなく、事業を手がけるために借り入れたのであり、木村としては何とも釈然としない気持ち。
「金利計算しても、金利は払える借り入れをした。値下がりしたって、物件を売ろうと思うてへんからね。ビジネスで儲けたらええと思ってるのに、不動産そのものの価値で債務超過とか言いよるから、これ売るのん違うよと。儲ける道具や言うけど、借金返せ、物件を売れと、こうなってもうた。銀行も黙って金利を取ったらええのに」
最終的に結局、仙台の自社ビルは40億円で購入したものを1億円で売却する羽目になった。三起商行は非上場会社だが、減損会計を導入することにした。この時は会計上、厳しい環境となったが、幸いに商品は顧客の支持を得て、売れ続けた。
時代の波の影響をどの企業も受ける。しかし、その時の荒波の中を生き抜くには、品質のいい商品やサービスを提供し、顧客に支持される企業であるかどうかということ。
「百貨店ルートを開拓してここまで来たけど、今度はコロナ危機で百貨店が全部閉まってもうたり、インバウンド客が無くなったりね。とにかく変化が激しい。それを乗り越えてこられたのも、備えとして、海外市場の開拓をちゃんとやってきたから。それで何とかクリアできた」
いいもの、最高級の品質の商品をつくる――。いろいろな危機が押し寄せてきた時、それを乗り越えるのは結局、この事に尽きるといえる。(敬称略、以下次号)