2021-05-16

【母の教え】木村皓一・ミキハウスグループ社長

木村 皓一氏



自分の決めたことは最後までやり通せ!



 基本的に、母はわたしたちに自分たちがやりたいことをやらせてくれました。

 実は、わたしは3歳でポリオ(小児麻痺)にかかり、小学生の時は車椅子生活を余儀なくされました。右足がずっと悪くて歩けなかったので、母はこれ以上わたしに苦労させたくないと考えて、将来は司法試験でも通らせて安定した生活を送れるようにと。体を鍛えることはおそらく難しいだろうから、わたしに勉強させて、何か特殊な国家資格でも取得してほしかったようです。

 ところが、わたしは自分の足で立てるようになって、普通に生活できればそれでいいと思っていた。だから、勉強することよりも、麻痺した右足にまず筋肉をつけようと考え、毎朝3時に起き、新聞配達を始めました。

 この時も、わたしが自分で言いだしたことですから、母は「絶対に投げ出さず、3年間はちゃんとやらなあかんで。みんなに迷惑がかかるんやから」と言って応援してくれました。

 母はどんなに夜遅くまで起きていても、暑い日も、寒い日も毎朝3時にわたしを起こしてくれました。そこから新聞配達所に行くのですが、わたしは片足が動かないので、いつもケンケンで1時間くらいかけて配達所まで行く。そこから、3時間くらい新聞配達をして、また1時間ほどかけて歩いて、家に戻ってくるのが8時半くらい。学生服に着替えて学校に着く頃にはすでに9時半とか10時です。

 でも、わたしは担任の先生に新聞配達をしていることは伝えていませんでした。だから、先生はよく「木村は遅刻が多いな」と言っていましたし、母はいつも学校にやってきて、先生方に頭を下げてくれました。

 母にしてみれば、わたしが悪いことをして遅刻しているわけではないから、それに関しては理解してくれましたが、わたしは疲れて、授業中はずっと居眠りしている。だから、成績もずっと悪かった。父も母もあの時代にきちんと大学を卒業しているのに、その子供の成績が悪いのですから、両親は内心すごく嫌だったと思います。

 わたしは中学の3年間、何とか新聞配達をやり遂げました。その結果、わたしは無事に歩けるようになり、高校、大学を経て、26歳で独立することになります。

 父は繊維の本場である大阪・本町で繊維の製造卸を営んでいましたので、当然、父は長男であるわたしが仕事を継いでくれるものだと思っていました。ところが、わたしは自分で考えた道を進んでみたかった。この時も母は「父は父、あんたはあんた」と言って、わたしのやりたいようにやらせてくれました。

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