なぜ、子供服で起業したのか?
子供たちに夢と希望をもってもらうために、質のいい子供服づくりを手掛ける――。
こうした思いで1971年(昭和46年)に起業した木村だが、何しろ26歳での創業であり、資産ゼロからの出発。
たった一人で始めたわけで、「女房も手伝ってくれました」とは言うものの、経営は全て実質一人で切り盛りしなければいけない。試行錯誤が続いた。
「とにかく付加価値の高いブランドを創りたい。それには高級ブティックのお客さんを持たんことには、付加価値の高い製品はできん」ということで、木村は販路開拓のための高級ブティック回りを始めた。
そして売り込みと同時に、市場調査も徹底。
「高級ブティックで一番売れているものをいろいろ買ってきて、それを分析していった」
で、調べた結果、どういうことが分かったのか?
「婦人服や紳士服の流れを見ていたら、ワンルックトータル、一人のデザイナーが頭の先から靴まで全部やらなあかんということが分かってきた」
実際、子供服業界を調べてみても、手掛けるものは専業化していて、トータルコーディネートができていなかった。
「ブラウス屋はブラウスしかつくっていない。ズボン屋はズボンしかつくっていない。靴屋さんは靴だけだし、帽子屋さんは帽子だけ。かわいい帽子でしょと勝手につくっている。トータルコーディネートは何も考えていない」
トータルコーディネート。頭の先から靴までトータルに商品を提案していこうと木村は考えたのである。
折しも木村が創業した1971年(昭和46年)には、若い世代向けの女性誌『an・an(アンアン)』が平凡出版(当時、現マガジンハウス社)から、また、ライバル誌の『non- no(ノンノ)』が集英社から発刊され、人気を博していた。
「両誌とも、わたしが創業する前後の創刊でしたね。その雑誌を見ると、新しいファッションの流れがトータルコーディネートという考えで載っていました。そやから、子供服もトータルコーディネートやなと」
この頃、男性ファッションにも変革の波が起きていた。『VAN』の創業者で、ファッションデザイナーの石津謙介(1911‐2005)は、1960年代に“アイビールック”で売り出していた。3つボタンのブレザーに、コットンパンツ、革靴のローファーでまとめるといったスタイルが若者に定着していった。
人の生活の基本は衣・食・住にある。“衣”に対する国民の認識も、高度経済成長によって、だいぶ変わってきていた。
時代の転換期にあって、木村は消費者心理を的確に捉え、高級子供服に的を絞り、トータルコーディネートで勝負していこうと心に決めたのである。
それにしても、なぜ、婦人服や紳士服ではなく、子供服分野への参入を決めたのか?
「金がないもん(笑)。金なしでできるんは子供服。生地をちょっと買うてきて、サンプルが縫えるんやから」