父の仕事を見ていて付加価値の高い仕事を!
木村の父・庄太郎は大阪・日本橋本町に本拠を構えて、婦人服メーカーを営んでいた。工場は和歌山県橋本市の高野口と四国・高知に所有。最盛期は1千人以上の従業員を抱えていた。
木村は姉2人、弟3人の6人姉弟で育った。長男の木村は父の仕事を身近に見ていたから、自然と繊維に関心を持っていた。
ただ、社会に出てストレートに繊維の世界に入ったわけではない。木村は関西大学経済学部に在籍中、アルバイトで野村證券に勤め、同大を中退した後、正社員として働いた。
野村證券の営業マンから「この会社の分析をしといてくれ。明日の早朝までに報告を」という感じで仕事を引き受けた。
各銘柄のデータをまとめ、産業界の流れをつかむ仕事で、「大変勉強になりました」と述懐。
自分も近い将来起業して、会社を経営しようと思うと、各産業、そして会社の分析・調査にも熱が入った。時代の流れや方向性、そして産業の盛衰を見て、新しい事業領域に投資していく。これはいつの時代も変わらない経済人としての生き方である。
父は自分の仕事を長男の木村(皓一)に継がせようと思ったらしいが、木村は父の意に反するように、自分の考えを告げた。
「お父さん、今の仕事は先細りになるよ。韓国、香港がのし上がってきて、こんな安い仕事をやっている時代と違う。この仕事を続けるなら、工場を韓国に持って行けと言うたんです」
当時の繊維業界、特に縫製(アパレル)業界では、中学卒業の若者を集めて、労働力を確保しようとしていた。
中学を卒業して就職する者も当時、まだ少なくなかった。“金の卵”ともてはやされたが、高校への進学率も高まり、こうした戦略も手詰まり感が出始めていた。
「父はワンダラー・ブラウス言うて、付加価値のない仕事をしとんねん。ヒトカタ1千万枚の仕事。ブラウス1枚で2円儲かったから、2千万円儲かるということ。そして工場を高野口とか高知県に持っていて、四国では隣の徳島県などの若い人を雇ってきて縫製に従事させているわけです。当時としては正しい。でも、横から見ていたら、近いうち、中卒なんておれへんよと父に言ったんです」
ワンダラー・ブラウス。要するに、米1ドル(当時は1ドル360円の時代)で買えるような安いブラウスという意味。
こうした安い繊維製品の対米輸出は増え始め、米国の消費者にとって、日本の繊維製品は“安くて品質がいい”ということで大人気であった。
しかし、米国の繊維(アパレル)業者にとっては、日本から安い製品を米国に輸出してくるのは容認できないとして、政治を突き上げようとしていた。貿易摩擦をどう解決するかは、日米間で最大の政治課題になろうとしていた。
それが日米繊維交渉である。