2021-03-22

【倉本聰:富良野風話】100歳からの伝言

永い付き合いである祇園の茶屋の女将と、時々電話で話をする。女将は一昨年、100歳を超えた。しかし頭は矍鑠としている。

 100になったら何やしらん。国か京都市か、どっかの偉い人が2、3人来はってな。総理大臣からのお祝いや言うて、賞状置いていかはったわ。せやけど、そんなもんもろたかてなァ。

 本当は、うち言いたいことあったんや。

 賞状はいらんさかい、100歳になったら、一つ特典をいただけんやろかてなァ。特典ちゅうのは、100になったらいつでも安楽死してええちゅう権利や。101歳になって102歳になって、益々その気持ちが強うなりますねん。

 世の中どんどん変わっていって、うちらもうようついていけんし、大体まわりに迷惑ばかりかけて生きとっても、しんどいことばかりや。医学がこんだけ進みはって、眠てる間に楽に死ねる言うんやろ? 安楽死の権利、与えてくれんかなァ。先生、誰かに頼んでみてくれへん?

 去年。62歳になるうちのスタッフが、自殺未遂の事件を起こした。3年前に肺癌を発症し、既にステージは4に達して永い苦しみの日々を過ごしていた。病院は様々な手を尽くしたが、病状は少しずつ悪化の方向へ進み、宣告された日限を過ぎても苦しみは増すばかりで、一向死は訪れず、一人暮らしの彼はある日、ナイフで首を切り、死にきれず、電動ドリルで胸に穴を穿って、それでも死にきれず発見された。

 救急車で運ばれて辛うじて一命をとりとめたのだが、僕は医者たちに必死に頼んだ。麻薬を使ってでも何とか少し楽にしてやることはできないのかと。緩和ケアを担当する麻酔医たちは、その方が良いと賛成してくれたが、内科医の考えは全くちがった。いつ新薬が出るか判らないから、生きる選択肢を選ぶべきだと。しかし彼はもう3年間、十分待って苦しんだのだ。

 人命は何よりも尊いという、古来のものの考え方がある。だが今一方で、医学の驚異的進歩により、人工呼吸やら胃ろうやら、本来の生死の判断を超えた所での生の裁定が為されている気がする。

 リビングウィルを重視する日本尊厳死協会に、かなり前から僕は入っているが、いざという時に尊厳死というこの言葉の重みが果たしてどこまで通用するのか。そのことにすら最近僕は疑問を持っている。

 とにかく命は何より尊い。植物人間になっても脳死せぬ以上生かせねばならぬ。この思想が、かくも医学の発達したいま、まだ生きていることが僕には判らない。というより、生きる意味合いを失った人間が、いつまで生きなければならないのか。この議論が全く行われず、タブーになったまま先送りされてしまっていることに、僕は賢者たちのずるさを見る。

 医学は哲学に裏打ちされなければならない。というか、医学と哲学は同時に進むべきなのではあるまいか。

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