2021-03-12

ミキハウスグループ代表・木村 皓一の「世界の子供に笑顔と安心を!」(第4回)

木村 皓一・ミキハウスグループ代表

3歳の時、小児麻痺にかかって…



 木村は1945年(昭和20年)2月23日滋賀県彦根市で生まれた。彦根は父親の出身地。父・庄太郎は大阪・本町にも居を構え、繊維の製造卸を営んでいた。

 木村は6人姉弟(女2人、男4人)の長男として生まれた。姉2人の後に男児誕生ということで、父も母・美喜子も大変喜だ。

 しかし、3歳の頃、木村は小児麻痺にかかり、右足が麻痺してしまった。

「ウイルスによる小児麻痺。41度、42度の熱が出て、右側の足がやられてしまった。その時の様子をじいさんからよく聞かされました。えらい熱出して、彦根市民病院へ運んでもらったと。それでずっと入院していました」

 それでも症状が改善しないということで、彦根から大阪市内の国立病院に通った。父の親友が国立病院に勤務しており、そのツテで大阪・上本町(天王寺区)の国立病院まで月一回通ったりしていた。

 当時住んでいた彦根から大阪まで、「汽車で3時間かかった」という。母が付き添っての大阪通いだったが、通うのは大変ということで、大阪市内へ住居を引っ越す。

 一家は大阪市南部の浜寺に住み、木村もしばらく浜寺にいた。その時代に、母と他の姉弟たちが買い物か何かの行事で出掛けていく時も、木村は一人で家に残り、留守番役を務めざるを得なかった。

 とにかく、木村は病院へ通わなければならない。上本町の国立病院に通う便利性を考えて、6人姉弟のうち木村だけが、上本町の家に父と一緒に住むことになった。

 ともあれ、小学4年生まで歩行困難で、車椅子生活が続く。その時の心境を木村が語る。

「僕は右足が悪かったから、どうしたら筋肉がつくか、筋肉をつけるには何をするかと。お医者さんに診てもらって、病院へ行って、マッサージを受けたり、電気治療をやったりしましたけど、何の効果も無かった」

 それは気休めだったと?

「いやいや、こっちのやる気が無かったから。痛かったら逃げるし、病院へ行っている意味があまり分かっていなかった」

 木村が続ける。

「車椅子に乗っている時ってね、すごく楽なんですよ。みんなが後押ししてくれるし、何もせんでもみんなが助けてくれる。それで甘えるわけです。自分は足が悪いんだからと、勝手に思ってしまう」

 小学4年生の時、よく車椅子を押してくれるクラスメートの女の子がいた。気立ての優しい子だったこともあるが、そのクラスメートの母親が心根の優しい人だった。

「木村君の面倒をできるだけ見るように」とその母親は娘に言い聞かせていたのだという。

Pick up注目の記事

Related関連記事

Ranking人気記事