2021-03-24

100年前、体温計国産化で創業、 カテーテル・エクモで存在感─  医療機器大手 テルモ・佐藤慎次郎の 「変革期にこそ、的確な ソリューションを!」

佐藤慎次郎・テルモ社長CEO

創業は100年前の1921年(大正10年)。当時はスペインインフルエンザ(風邪)という感染症が猛威をふるい、患者の容態を先ず測る体温計の国産化から出発。日本の医療の近代化を背負っての同社のスタート。1960年代には使い切り(ディスポーザブル)の注射器を日本で初めて導入。そして日本赤十字社と連携しての輸血専用バッグのプラスティック化、さらには1980年代にカテーテル検査・治療領域で存在感を高めた。「テルモは医療の現場を支える医療機器メーカーとして、その時代のニーズを先取りして危機時にチャレンジしてきた歴史」と社長の佐藤慎次郎氏。今回、パンデミック(世界的大流行)となったコロナ禍では重症患者治療の“最後の砦”とされるエクモ(体外式膜型人工肺)も得意領域。さらに患者、医療関係者の命を守るため、ウイルスが繁殖しないように“滅菌型ロボット”を投入するなど、医療改革への努力が続く。事業展開は160か国以上にわたり、売上の7割は海外が占める。グローバル化する中で、その国の国民の命と健康保持にどう新機軸を打ち出していくのか。
文=村田 博文

北里柴三郎博士を中心に
会社を設立

 危機の中で、イノベーション(技術革新)は進む─。

 医療機器大手、テルモの事業は体温計の国産化からスタートした。1921年(大正10年)のことで、当時は第1次世界大戦で世界中が疲弊し、加えてスペインインフルエンザ(風邪)が大流行。

 死者は世界で5000万人とも1億人ともいわれ、まさにパンデミック(世界的大流行)に人々は苦しめられていた。

「今から100年前の1918年にスペインインフルエンザが入ってきて、次の年、次の年のさらに2年位にわたって大流行。第2波、第3波があって流行したということを聞くと、当時1921年に国産体温計をつくろうという動きの中心には、そうしたインフルエンザの影響もあったのかなと」

 テルモ社長・佐藤慎次郎氏は創業の状況をこう語り、次のように続ける。
「だから、本当に国民にちゃんと体温計が手に届くようにしようと、そして医療機関に必ず国産のいい体温計があるような時代にならなければいけないという思い。そうした関係者の思いを汲んで、この会社が発足しました。今回のコロナ禍で、100年前の会社発足がそういう原点にあったのだということをいみじくも感じましたね」

 当時、日本はドイツから体温計を輸入していた。そのドイツは第1次世界大戦で敗戦国となり、体温計が日本に入ってこなくなったという事情。

 日英同盟を結んでいた日本も第1次大戦に参戦するが、主戦場は欧州であった。日本は大きな戦禍を受けることなく、米英仏伊と並んで

〝世界の5大国〟の仲間入りを果たすという時期。

 このときの医療はどうだったのか?

「折しも日本の医療が近代化するところで、まだ民生化された体温計がなくて、それで大変だというので、医療の関係者が声を上げて、国産の体温計の会社をつくろうということになったわけです」

 この医療関係者の中には、『日本の細菌学の父』といわれ、ペスト菌発見で有名な北里柴三郎もいた。北里柴三郎は破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した人物。

「北里柴三郎博士は、自分が会社設立の労を取ろうと動かれたし、博士には設立時の議長まで務めていただいてつくった会社なんです」

 佐藤氏はこう語り、「そうした創業以来のDNA(遺伝子)というか、設立の趣旨に添って、医療の進化に貢献する会社として100年間やってきた。これからもそういう会社でなければならないという思いを持ち続けていきたい」と強調する。

 では、創業時のDNAとは具体的に何か?

「会社設立からの100年を見ていると、体温計の国産化だけではここまでやって来れなかった。やっぱり折を見て、新しい医療が出てきたときに、そこで一歩先んじていく。リスクを取って何かをやって、人々の役に立って、その結果として成長していく」

 創業期は、スペイン風邪という感染症危機の真っ只中でその危機を克服しようというとき。医療が大きな進化を果たそうというときに、「本当の意味で役に立てる企業として、初めて存在価値が生まれる」と佐藤氏。

 ひるがえって、100年後の今はコロナ禍の真っ只中。コロナ克服、そしてアフター・コロナを見据えて、「骨太の課題に技術と知見をもってちゃんと応えられる企業として進めていきたい」と言う。

本誌主幹・村田博文

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