2021-03-07

【母の教え】みずほフィナンシャルグループ・小林いずみ取締役会議長「終戦の翌日に土地を買いに行った祖母の生き方が、私の経営者としての原点」

小林いずみ・みずほフィナンシャルグループ取締役会議長

「祖母は私に商売する上で大事なことを教えてくれました」──小林いずみ氏はこう話す。小林氏の祖母・はるさんは終戦翌日の1945年8月16日に茨城から上京し、東京・日本橋の土地を買おうとしたという逸話を持つ。そして、小林氏に対しては「商売をする上で大事なこと」を言い聞かせてきたという。その教えとは──。

混沌の中に好機がある


 私が強く影響を受けたのは、母方の祖母・はるです。1909年(明治42年)に東京・深川で生まれ育ち、大正時代に青春を過ごした人ですが、とにかく「商売」が好きでした。

 これは逸話の多い祖母のとっておきの話です。終戦間際、祖父は2度目の召集令状を受けて出征しており、祖母は祖父の実家がある茨城県の水戸に疎開していました。

 元々祖母は戦争が終わったら料理屋を開きたいという希望を持っていましたが、1945年(昭和20年)8月15日に終戦になると、その翌日、手元にあったお金を全て持ち、日本橋の土地を買うために上京したのです。

 交渉の結果、その日に購入の話がまとまり、翌日には残金を持参するという約束をして、帰路につくためにやってきた上野駅で、偶然復員してきたた祖父と遭遇したのです。

 祖父は商売にはあまり関心のない人でした。祖母の姿を見て驚いた祖父は「こんなところで何をしているんだ! 」といって水戸に連れ帰り、翌日に上京することができなくなって契約が流れてしまったのです。

 後年、祖母は「あそこで爺さんと偶然出会わなければ、今頃私は日本橋で料亭が経営できていたのに……」と悔しそうに言っていました(笑)。その後も祖母は諦めず、水戸で一等地の売りが出ると「買いたい」と言っていたそうですが、その度に祖父に止められていました。

 祖母は長女として生まれたのですが、下に生まれた弟が早逝し、曾祖父も早くに亡くなったことから、曾祖母とともに家を支える立場にあったことも、人格を形成する上で大きかったのだと思います。

 本人はいつも「商売が好きだ」と言っていましたし、後年、水戸で小さな料亭を営むようになりましたが、その姿を子どもながらに見ていても、人を使うのが上手だなと感じていました。決して「自分が自分が」というタイプではなく、周りの人の力を生かしながら、カギとなる意思決定はするという人です。

 この素養は天性のものだったのだと思います。祖母には失うことを恐れない大胆さと前向きさがありました。そして、大叔母などの話を聞くと、「大正デモクラシー」という、活気があり、自由に物事を考えることができた空気の中で祖母が青春時代を過ごしたというのは大きかったのではないかと思います。

 私の母・まち子も祖母の血を受け継いでいるわけですが、戦中・戦後の閉塞感のある時代に多感な時期を過ごしたせいか、物の考え方に保守的なところがあると感じます。

 私は祖母に非常にかわいがられたこともあり、物心付いた時から祖母の逸話を聞いてきました。終戦の翌日に土地を買いに行く、つまり混沌の中にオポチュニティ(好機)があるということが強く印象付けられました。

 そしてもう一つ、子どもの頃に祖母から言われて強烈に印象に残っている言葉があります。それは「お金は、借りたい時には誰も貸してくれない。だから、不要な時に借りておかないといけない。それを少しずつ返して信用の実績をつくることで、本当に必要な時に貸してもらえる」ということです。

 また、多くのご家庭では「借金をしてはいけない」と言われると思います。祖母は逆に「借金は財産だ」と言っていました。

 祖母がなぜ、まだ小学生の私にこの言葉を言ったのかはわかりませんが、自分が企業を経営する立場になって、本当にこの言葉の大事さを実感しましたし、この原則は守らなければならないと思いました。祖母はキャッシュフローと信用の重要性を教えてくれたのです。私のDNAに埋め込んでくれたと感じます。

 子どもの頃の私はまさに「普通」の子でした。ご近所からは「いずみちゃんは本当にいいお嫁さんになるね」といつも言われていたくらいです。

 これは母の教えですが、小さい頃から家事の手伝いをしていたからだと思います。例えばお米は3歳から研いでいました。私はそれが普通だと思って育ちましたが、大学時代に部活の合宿をした際、お米を研いだことがない仲間がいて「私は騙されていた」と知りました(笑)。生活していく上で必要なことは母から教わりました。

小林さんと祖母のはるさん
小林さんと祖母・はるさん

「いい学校に決まったな」と言われて反発


 小、中学校は地元の公立に行き、高校も都立に合格しましたが、担任の先生に「いい学校に決まったな」と言われたことになぜか反発し、恵泉女学院に通うことを決めました。私には、子どもの頃から何でも人に決められるのが嫌で、自分で決めたいという気持ちが強かったことが影響したのだと思います。

 私が成人してからは、母はそれが不満だったようです。周りの女の子は常に母親に相談をして物事を決めていたのに、私は一切相談せずに、全て自分で決めていたからです。

 恵泉での3年間は個性の強い友人達、懐の深い先生方のおかげで、非常に充実したものになりました。

 大学は成蹊大学に進みました。文学部でしたが、主に学んだのは社会学です。ただ、大学時代に打ち込んだのは外洋帆船部での活動でした。入部した動機は「知らない世界を見てみたい」というものです。

 特に印象に残っているのは、20歳の時に3カ月間、南太平洋に行ったことです。肉体的には全く問題なかったのですが、24時間逃げ場のない、クローズドの世界での人間関係は難しく、精神的には厳しい経験でした。この時に苦労を共にした仲間は、久しぶりに会っても、言葉に出さずとも通じるものを感じます。

 また、私のストレスのレベルは、この経験が基準になっていますが、まだ、この時以上の経験はしていません。

 航海に出るための資金を稼ぐためにアルバイトにも打ち込み、3年生の時には人の手配をする側になっていました。そこでそこそこのお金を稼いでいたこともあり、就職してから給与をもらった時には少ないなと感じたことを覚えています(笑)。

 新卒で入社したのは三菱化成工業(現・三菱ケミカル)です。当時は4年制大学を卒業した女子を採用する企業は少ない時代で、いろいろ驚くことも多かったですが、いま振り返ると非常に優しい会社でした。

社員とその家族への責任を感じながら


 転職にあたってメリルリンチに入社したのは、単に新聞の就職情報を見ながら応募したという偶然の出会いです。仕事は本当に充実していました。三菱化成での仕事が与えられたものだったのに対し、メリルでの仕事は自分で判断し、完結させるものだったからです。誰も手掛けておらず、やりたい仕事があればどんどんやっていいという風土でしたし、報酬も仕事の成果次第。全て自分で決めたい私に合っていました。

 社長に就いた時には、それまでとは違う責任を感じました。部長、役員の時は部下への責任は感じていましたが、社長はその家族まで全て、自分に責任があると感じたからです。

 常に「次に何が起きるか?」を考えながら経営していましたが、これは海と対峙していた大学の部活での経験が生きました。

 在任中にはリストラも実施しましたが、「次にこれをやるからリストラするんだ」ということを語れないと、辞める人は納得できないでしょうし、残る人も不安ですから、強く意識して取り組んできました。祖母から言われてきたことが実感を持ってわかったのが、この頃です。

 その後、国際機関での経験を経て、現在はいくつかの企業の社外取締役を務めさせていただいていますが、女性という意味では、自分の役目は社内から人材が育つまでの「つなぎ」だと認識しています。逆に、女性の社外取締役を入れて数字がよく見えれば良いと考える企業からの依頼はお断りさせていただいているのです。

 女性の側の意識も変えていく必要があります。中には「自分は女性だから下駄を履かせてもらっている」と考えてしまっている人もいますが、これまで男性が下駄を履かせてもらってきたわけですから。そんなことを考える前に結果を出すべく努力をした方がいいんです。

 私は次にやりたいことを決め込まないタイプですが、大きな意味で若者が活躍しやすくなる企業、国にするための活動をしていきたいと思っています。

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