2021-03-06

アステリア・平野洋一郎社長CEO「いつか父に認めてもらいたい。この思いでソフトウェア開発に打ち込んできました」

平野洋一郎・アステリア社長CEO

「もう帰ってこんでよか」──大学を退学したという報告を受けた時、平野氏の父親はこう言って勘当し。その後、仲間とつくった会社、外資系企業で成果を上げてきたが、父に「その道を選んでよかったな」と言ってもらいたいという思いが平野氏を支えた。平野氏の父は今では毎日株価を確認しているという。起業をし、東証1部上場企業となり、世界を見据える現在の平野氏の思いとは。

苦心した製品を採用した大企業


 ─ 前回、2002年に資金が枯渇する危機に追い込まれ、開発をやめるか、リストラを実施するかという選択の中で、リストラを選んだというお話でした。いい製品を出せるという思いがあったということですか。

 平野 そうです。創業の時に考えていた製品が、ようやく出来上がるというところでした。私は元々エンジニアですから、ここまでつくったものは捨てられない。子供みたいなものです。

 一方で、絶対に銀行には行かないというのが私のポリシーでした。食いつなぐために銀行に行って融資を受けたら、それまでの苦労が水の泡になる。

 当時は経費のほとんどが人件費でしたから、人を減らすしか方法がないということでリストラを決意し、社員を70人から35人と半分にしました。そうして6月25日に製品を出荷できたのです。待っていてくださった企業から、すぐに売り上げが立ち始めましたが、このリストラは起業してから22 年の中で、今も一番きつい出来事です。

 ─ それまで世の中にない製品を待ってくれていた企業がいたということですね。

 平野 ええ。開発陣がいい製品をつくってくれました。最初のお客様はソニーさん、2番目が京セラさんと大企業が採用してくれたのが本当にありがたかったですね。実績のないベンチャーの製品を採用しない大企業も多い中、2社とも、担当の方が〝侍〟でした。

 ソニーさんも京セラさんも元々はベンチャー企業で、そういうスピリットがある会社だと感激しました。かつ、そうした企業に採用されたことによる「看板効果」で多くの方に認知していただくことができました。

 ─ シリコンバレーではなく、日本でベンチャーの可能性を示したことで、出資した投資家も喜んだのでは?

 平野 日本では株式1株の額面が5万円と決められていた時代に4倍の20万円で評価して欲しいといって投資を募った創業時は5年で上場というプランでした。最終的には8年半かかりましたから、投資家の方々にはご心配をおかけしましたが、結果的には喜んでいただけました。

 ─ 日本でも投資する側の意識はだいぶ変わってきたことは言えますね。

 平野 今はベンチャーキャピタルもスタートアップに投資をしますし、中にはスタートアップに特化したファンドすらあります。20年前に比べれば、環境はかなり整ってきました。ただ、投資額はまだまだです。

 ベンチャーキャピタルからすると、対象となる市場規模が違うと。日本でシェア50%と、米国からスタートして英語圏でシェア50%とでは市場規模が桁違いです。その意味では、日本のスタートアップは日本のベンチャーキャピタルだけではなく、海外にも目を向ける意識が必要でしょう。

 ─ 改めて、平野さんが日本で事業を続ける思いを聞かせてください。

 平野 私は今もソフトウェアエンジニア魂を持っており、日本のソフトウェアを世界中で役立つようにしたいという思いを持ち続けています。

 私たちだけでなく、いろいろな企業がその思いを持てば、日本はソフトウェア輸出国になることができる。これは創業時から変わりません。

大学を退学して勘当、いつか認めて欲しいと…


 ─ ところで平野さんは熊本生まれで、熊本大学に入りましたが2年で中退したそうですね。ご両親は反対したのでは?

 平野 20歳になる直前のことです。私は3人兄弟の長男です。実家はみかん農家ですが、小さい頃から「4年制大学を出て公務員になれ」と刷り込まれていたんです。ですから父は熊本大学への入学を喜びましたね。

 退学は父が絶対反対することはわかっていましたから、勝手にやめました(笑)。ただ、退学するためには保証人が必要で、大抵親がなるのですが、ハンコを押してくれないのはわかっていましたから、友人の親に頼んで押してもらいました。

 退学届が受理されてから親に報告に行ったら、父は烈火のごとく怒りました。私が土下座をして謝っているところを父に足で蹴り出されて「もう帰ってこんでよか」と言われたのです。

 ─ それからどうしたんですか。

 平野 帰りませんでしたね(笑)。最初は友人の家を渡り歩きました。その後は大学のマイコンクラブの仲間と設立した会社がありましたから、大学の近くにアパートを借りました。実家に帰るまでには2年近くかかりましたね。

 ─ その時に生計を支えるだけの仕事があったと。

 平野 ありがたいことに十分ありました。当時は各大学の周りにプロダクトベンダーが続々誕生していました。

 大学生ですから、社員を食べさせるという意識ではなく、好きでやっているからプロダクトしかつくらず、受託は一切やりませんでした。その中からヒットが出ると身入りになる。

 ですからお金には余裕があり、出身中学が新設校だったことから、自費で卒業生の名簿をつくったりしていたくらいです。

 ─ 勘当をされても生活には困らなかったんですね。

 平野 そうです。これは初期、小さい組織で開発に専念できたからです。これが社員が増えていくと安定した日銭稼ぎが必要になり、受注型に転換し、経営が安定するという流れになっていきます。

 プロダクトはヒットしたり、しなかったりするのでギャンブルなんです。企業として育っていくためには安定性が求められる、これが落とし穴です。

 ─ 平野さんは受注型ではなく、プロダクト開発を志向していた。

 平野 それで、熊本の会社では社長とケンカして辞めることになり、東京に出てきたんです。

 ─ ケンカの原因は?

 平野 私がつくったワープロが日本国内でベストセラーなったんです。ただ、当時のコンピュータはメーカーごとに構造が違っていたので、私のつくったワープロはNEC製のコンピュータでしか動かなかったんです。

 そうすると、他のメーカーの方々が「移植して欲しい」と熊本まで来られるようになります。しかし、そのワープロは8ビットの製品、私は開発者として16ビット製品の開発を始めていました。だから、8ビット製品の移植はやりたくないと。

 でも、断れば断るほど良いオファーが来ます。最初はお願いだったものが、何千本単位でのコミットや、まとまった金額を先払いするという話になりましたが、私は断り続けました。

 そんなある日、社長が「平野君ごめん、契約してしまった」と言ってきました。経営としてはプロダクトだけども先払いで、数千本の購入で数千万円の売り上げが見込めるものを受注しない手はないというわけです。

 私は「8ビットの製品開発を続けていたら世の中についていけないし、会社の明日はない」という話をしましたが、社長は「そんなことを言っても今日が生きられないなら明日は来ない」と言います。そんなやり取りがあって、社長と間に埋めることが不可能な溝を感じて会社を辞めました。

 ─ 大きな決断でしたが、何歳の時でしたか。

 平野 24歳の時です。正直に言って、当時が一番稼いでいましたね。その会社は私が辞めた後、22人いた開発陣のうち20人が辞め、2年後には倒産してしまいました。

 ─ その後、ロータスで11年過ごした後、起業するわけですが、その間、平野さんを支えたものは何ですか。

 平野 実は、大学をやめてからの私の支えはずっと父なんです。大学をやめた時、私が生まれてから父が20年持っていた夢を裏切ったわけです。それで勘当されたわけですが、親が生きているうちに、いつか「そっちの道を選んでよかったな」と言って欲しいという思いです。

 ─ 事業を成長させ、東証1部にも上場した。「よくやったな」とは言ってもらっていないんですか?

 平野 それがまだ言ってもらっていないんです。最初に言ってもらえるかなと思っていたのが、07年の東証マザーズ上場の時です。嬉々として報告に行ったのですが、「上場なんかして、人様に迷惑をかけるなよ」と言われました(笑)。

 ただ、上場したら地元の新聞でも株価が出ますから、それを毎日一生懸命見ていると、母から聞きました。私には言いませんが、嬉しい部分もあるのだろうと思いましたが、直接言って欲しいという思いがあります。

 おっしゃるように東証1部上場はさすがに言ってもらえると思い、東京での上場記念パーティに招待したのですが駄目でしたね。当時は海外企業を買収するなどしており「世界に行って大丈夫か」と言うんです(笑)。

 私は大学をやめる時も「熊本から世界へ」と言っていました。私の定義では、海外売上高が5割以上になればグローバルカンパニーと名乗っても恥ずかしくないと考えていますが、足元では2割ですから、さらに伸ばしていきたいと思っています。

社会システムを変えるものに投資できない?


 ─ 平野さんはブロックチェーン推進協会(BCCC)で代表理事を務めるなどブロックチェーンの普及拡大に取り組んでいますが、世界では中央銀行デジタルコイン(CBDC)の議論も進んでいますね。

 平野 世の中は間違いなくデジタル通貨に向かうと考えています。リアルな通貨に比べて便利で速い。そして世の中のマネタリーベースを見ても、通貨よりもコンピュータ上で動いている数字の方が圧倒的に多く、少なくとも取引はすでにデジタルになっているんです。

 その上で、今後は国がどう取り組むかが大きなポイントです。これまで暗号資産などは国が関与しないところで広がってきましたが、中国は明らかに関与する姿勢をとっています。そうなると米国を含め、知らないふりはできません。CBDCは止められない流れだと捉えています。

 ─ 法定通貨を裏付け資産とする暗号資産、ステーブルコインを発行する企業も増えてきていますが、この流れをどう見ますか。

 平野 今、BCCCでも取り組んでいますが、ステーブルコインは国を越えたやり取りを行う上で必要だと考えています。BCCCはそれを運営するのではなく、世の中での使用に耐え得るステーブルコインの技術を確立したい。

 ─ ただ、日本ではブロックチェーンへの投資があまり進んでいませんね。

 平野 確かに日本は先進国の中で、投資で出遅れています。日本は既存の枠組みを壊しそうなものには投資が難しいんです。例えば米国で「Youtube」が出た頃、日本でも動画共有サービスが出てきましたが、なかなか投資が付きませんでした。

 なぜなら著作権侵害を助長する恐れがあるからです。しかし、米国では投資が付き、最後はグーグルが買いました。日本は社会システムを変えるものになかなか投資ができない。ブロックチェーンもその一つです。ただ、技術力は負けていませんから、海外から投資を受けたり採用されることはあり得ます。

 ─ 平野さんは故郷である熊本の地域興しに取り組んでいますが、この思いは?

 平野 郷土である熊本時代があって、今の自分の基盤がつくられています。以前は自分が経済活動を終えて、時間とお金ができたら熊本に恩返ししようと考えていました。しかし、16年に熊本地震が起き、「いま恩返ししないでいつやるんだ?」、という思いで考えを切り替えました。

 当初は上場企業の経営者として、自分の地元に対して何かするというのは、公私混同のようであまり気が進まなかったのですが、地震をきっかけに取り組みを始めたところ、地元だからこそ物事が速く進むことに気が付きました。私たちは企業としてスピードを常に重視していますが、私たちの製品を活かした地方創生支援などでも、最も速く進むところと一緒に取り組むのは理にかなっていると。

 多くの企業経営者が出身地の自治体と組むモデルで、新しい地方創生の形ができるのではないかという思いで、自ら取り組むだけでなくアピールもしているんです。

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