2021-03-01

アステリア・平野洋一郎社長CEO「『ソフトウェアのソニーになろう』 という思いで起業をしました」

平野洋一郎・アステリア社長CEO

キーワードは『つなぐ』──。「起業をする際、当時の上司から『やめておけ』と言われました」と平野氏。当時は自分たちのシステムで囲い込むが常識だったが、平野氏には「『つなぐ』世の中になる」という確信があった。「階層・規律・統制」の社会から、21世紀は「自律・分散・協調」の社会になり、大企業だけでなく、小さな専門家がつながることで大きな仕事ができるようになるという考えを20年間、持ち続けてきた。平野氏の起業哲学とは。

「ユーザーのため」を考え起業を決断


 ── 平野さんは異なるシステム同士を「つなぐ」ソフトウェア、そしてブロックチェーン活用でも注目されています。起業の動機は何でしたか。

 平野 私達が22年前の創業時に抱いたことは2つあります。1つは日本から世界中で役立つソフトウェアを生み出していこうということです。私と、北原淑行(アステリア副社長CTO)が当時考えたことは「ソフトウェアのソニーになろう」というものでした。

 ソフトウェアは資源が無く国土も狭い日本という国に適した産業財だという思いがありました。製造業のように外部から輸入することなく、自分たちの頭で考え、世界の役に立つことができる。日本をソフトウェアの輸出国にしたいと考えたのです。

 もう1つは「階層・規律・統制」の社会から、21世紀は「自律・分散・協調」の社会になるということです。大企業しか大きな仕事ができなかった時代から、小さな専門家が集まり、必要に応じて「つながる」ことで大きな仕事ができる時代に変わると考えました。

 これらの考えは一貫して変わっていません。この姿勢を多くの投資家、お客様に支えていただいて現在があります。

 ── 創業期に「つなぐソフトウェア」という概念は投資家に理解されたんですか。

 平野 理解してくれた人しか投資しなかったというのが正しいですね。創業は1998年で、その2月に完成したばかりの「XML」(データを記述する言語の一つ)という技術に賭けようと決め、XML専業ソフトウェア開発会社として9月にスタートしました。

 ── 当時勤めていた会社の上司からは「やめておけ」と言われたとか。

 平野 そうです。XMLはできて間もないし、市場もないからやめておけと。そして1つに絞るのは危ないから最低でも3つは事業を用意して、その中の1つが成功すればいいじゃないかとアドバイスされました。私は逆にチャンスだと思いました。

 ── なぜ、チャンスだと思ったんですか。

 平野 業界の中でもビジョナリー(先見の明がある)と言われていた、その上司ですら気がついていないんだと。私は「つなぐ」社会に向かうことを確信しており、そのために必要な技術が出てきたことで「これだ」と思ったからです。

 当時は各ベンダーが、自社のソフトウェアで囲い込みをしていました。オープンにしてしまうとシェアを維持できない。当時、私はロータス(現・日本アイ・ビー・エム)におり、表計算ソフトやグループウェアを担当していました。

 グループウェアは当時、世界で5割のシェアがありました。しかし、他社のグループウェアとはメールくらいしかやり取りができない。これがつながればユーザーはハッピーです。5割のシェアを持つロータスがデータ形式と通信手順を公開すれば世界がつながると提言したのですが、案の定却下されました。

 ── その時には、どんな思いでしたか。

 平野 考えてみれば当たり前だと。5割のシェアを持つ企業が敵に塩を送る必要はありません。だとしたら、ソフトウェアではない、違うデータの領域でつながることを考えようと。そこで研究していたところ、開発されたのがXMLでした。

 同僚だった北原を呼んで2人で仕様書を読み、「これはいける」と98年6月1日に同時に辞表を出し、3カ月準備して9月1日に会社をスタートしました。

日米の差は投資モデルにあり


 ── 既存企業からすると「つながる」世界の実現で自らの存立基盤が壊されるという思いがあったということですか。

 平野 彼らが構築しているシステムの領域は壊れないのですが、壊れるのは各社の仕様でソフトウェアを受注し、手作りしていた部分です。

 日本のソフトウェア産業は多くが大企業から数十億円という1個のシステムを受注し、注文書通りに開発して収める受託型です。1件1件、各社ごとに異なる仕様で開発するんです。

 一方、米国は「GAFA」などに代表されるように受託はせず、注文が来ないのにソフトウェアを考えて開発し、それを提供して何千社、何万社と使ってもらう形でスケールしていく。日本もこのモデルをやらない限りは、GAFAを目指しても超えようがありません。ですから当社は受託を一切やりません。

 ── 「日本になぜGAFAが育たないのか? 」と言われますが、そうした産業の基本構造によるところが大きいと?

 平野 根本的な問題は、投資に対する考え方が弱く、規模が小さいことだと思っています。 例えば日本でスタートアップを起業した時、どうやって事業を営んでいるかというと、大企業の下請けで日銭を稼いでいることが多い。投資が数億円くらいしか出ず、給与などでなくなってしまうからです。米国だと数十億円、数百億円の単位でスタートアップに資金が入ります。

 つまり、日本ではスタートアップは下請けビジネスなので、大企業に対してディスラプティブ(破壊的)なことを仕掛けていけないのです。シリコンバレーでディスラプティブなことが起きるのは、スタートアップに潤沢に資金があり、大企業を敵に回せるからです。

 ── 平野さん自身はシリコンバレーで起業する気持ちはなかったんですか?

 平野 よく言われましたね。ただ、前職がロータス、その前はエンジニアという立場でしたが、その経験から、このままだと日本のソフトウェア産業は壊滅しかねないという危機感がありました。何が必要かというと投資モデルです。

 私は熊本から出てきて、ロータスで3年勉強した後辞めて、熊本に帰って自分の会社をつくろうと考えていました。

 その時のプランは地元の銀行から数百万円の融資を受けて、事務所を借り、少しずつ会社を大きくしながら、余った資金で研究開発をするというものでした。当時は多くの日本企業が、こうしたモデルで事業をしていたんです。

 しかし、これではシリコンバレーのベンチャーには太刀打ちできません。最初から2桁億円を調達し、売上を上げずに2~3年は研究開発に専念し、すごいプロダクトをつくって世の中に出していく。日銭を稼ぎながら夜の空いた時間に研究開発をする日本モデルとでは、戦闘機と竹槍くらいの差がある。

 私自身、ロータスで米国製品が日本製品を駆逐する仕事をしてきたわけです。結果として。日本にも表計算ソフト、グループウェアはありましたが、ロータスに負けてしまった。

 それは良い製品がつくれないのではなく、投資構造の問題です。日本企業は大きな投資ができないから、一生懸命売っていかないと開発費が出ないんです。シリコンバレーは先に投資による開発費があるので、製品を売らずに開発に集中できる。

創業を助けたエンジェル投資家


 ── そのモデルを、あえて日本でやろうと。

 平野 ええ。このモデルを持ち込まないと日本のソフトウェアは駄目になると考え、東京で、銀行に行かずに投資だけで事業を立ち上げるという取り組みを始めました。

 最初は日本の大手ベンチャーキャピタルの門を叩きましたが、提出書類を見ると、書くのは大口取引先や過去5年間の実績です。我々は会社を設立したばかりですから、住所と社名くらいしか書けません(笑)。ですから門前払いです。

 そこでシリコンバレーのように「エンジェル投資家」と呼ばれ、資金を出している個人の方を回り始めました。しかし最初は散々でした。当時、日本の会社の株価は商法で1株5万円と決まっていたのですが、それを設立すぐの会社が4倍の20万円で評価してくださいと言って回ったからです。

 ── どういう反応でしたか。

 平野 行く先々で「売り上げも利益もないのに非常識だ」と言われました。なぜ、私が4倍と言ったかというと、シリコンバレーの友人たちを見ていると、1株1セントで設立した会社を10セントで買ってもらうというモデルが普通だったからです。

 これは先行投資です。将来のエグジットがあるから、そこから割り引けば10セントでも安い。10㌦で上場できれば100倍になりますからね。でも10倍はおこがましいので、遠慮して4倍にしました(笑)。

 そうして話をしていくうちに、私の念(おも)いに共感していただける理解者が徐々に現れました。投資家側にも、日本のスタートアップが先行評価で成り立つようにしていかないと勝てないという問題意識を持つ方がおられることもわかりました。そうして最終的に16名のエンジェル投資家に入っていただくことができたのです。

 ── 起業家側、投資家側それぞれに同じ問題意識があってこそのスタートだったと。

 平野 ええ。面白いことに、16名の方が載った株主名簿を見て、門前払いだった日本のベンチャーキャピタルが、どんどん来るようになりました。最終的に32社からお声がけいただいたので会社説明会を開催し、こちらから会社を選定させていただき、11社から総額27億円を調達しました。

 エンジェル投資家の方々がいなければ、そこで我々は終わっていましたし、その時その時で助けてくださった方がいたからこそ、今があります。

 ── エンジェル投資家は、平野さんの考え方をよく理解していたということですね。

 平野 我々は27億円を調達したおかげで、赤字でも製品の研究開発投資を継続できたこともあり、黒字になったのは創業から7年後の05年のことです。

あと3カ月で資金が枯渇する


 ── 世に一つのモデルを提示した形になったわけですが、赤字の間の経営者としての心境はどうでしたか。

 平野 投資がある程度集まった後に、世界では「ドットコムバブル」が弾け、日本では「ITバブル」が弾け、止めに01年の「9・11」、同時多発テロが発生して資金調達が極端になくなってしまったのです。

 投資家から資金を入れていましたから、上場も考えていました。主幹事も決めていましたが、ドットコムバブルが弾けたことで、その証券会社は全世界的に引き受けをやめる判断をされ、我々の上場プランは宙に浮いてしまいました。

 02年6月に今の主力製品である「アステリアワープ」の初版となる製品を出せたのですが、その年の初頭には資金が枯渇し始めており、あと3カ月でゼロになるというところまで来ていました。あと6カ月あれば製品が完成するという段階でどうしようか悩みましたが、苦渋の判断で社員数を約半分にするリストラを行い開発を進めました。

 投資モデルで事業を進める上で大きいのは、失敗した時にすぐに次に行けることです。日本の企業の多くは融資で成り立っており、経営者は個人保証もしていますから、失敗したら借金を返済するまで再起できません。ひどい時には命を落としたり家族離散にもなってしまう。

 投資の場合には、本当に一生懸命やってゼロになったとしても、翌日から次のことができる。例えば、ある時シリコンバレーの友人を訪ねたら、10億円以上の出資を受けた会社を潰していました。そんな時に私とご飯を食べていたわけですが、「ご飯を食べている暇はあるのか? 」と聞くと「いや、次のビジネスプランはこれなんだ」と言って見せてくれた。この違いです。

 しかも、「会社を潰した人間に出資する人間はいないだろう? 」と言ったら逆でした。潰した会社の最大の出資者がまた出資すると言ってくれているというんです。それは失敗の経験があるから、次はよりうまくいくだろうという論理です。

 ── 日本の銀行は絶対に言わないでしょうね。

 平野 ええ。ですから私は、事業が失敗した時に「次に行こう」と即日言えるモデルも世の中に示したかったんです。02年初頭に資金があと3カ月で枯渇するという時、「ベストを尽くした。以上終わり」で翌月から新しいことをやる、というのが私の考えた「プランB」でした。(続く)

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