2022-09-02

【母の教え】ミライロ社長・垣内俊哉氏「母の『愛ある厳しさ』が私の人格形成、起業の礎になっている」

垣内俊哉・ミライロ社長

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2万人に1人という難病「骨形成不全症」がありながら、障害を価値に変える「バリアバリュー」を掲げて事業に取り組む、ミライロ社長の垣内俊哉氏。その垣内の母・美智子さんは、子供の頃から後に垣内氏が向き合うであろう現実に早くから対峙させたいと、様々なことに心を砕いてきた。また、あえて厳しく育てることで、強く生きることの大事さを教えてきた。

【写真で見る】垣内さんの母・美智子さんと幼少期の垣内さん兄弟

冷たい視線から温かい視線へ


 私の母・美智子は1963年(昭和38年)、愛知県安城市で生まれました。女2人、男1人の姉弟の次女です。母方の祖母は苦労をしながら、3人の子供を女手一つで育てましたから、母も幼い頃から仕事をして身を立てたいという思いを抱いていたようです。後に一生懸命勉強をして看護師となります。

 父の勉は1960年に岐阜県中津川市で生まれました。私と同じ「骨形成不全症」がありますが、コツコツ勉強をして、働きながら名古屋工業大学の夜間部を卒業した後、リコーグループに入社しました。

 2人は、父が事故で怪我をして入院した患者、母が入院した病院の看護師という形で出会いました。ただ、当時は今以上に障害者への差別意識が強く、母は祖母から結婚を認めてもらえませんでした。それでも結婚に踏み切った母の意志の強さを感じます。

 私は1989年に生まれました。骨の病気は遺伝性で、弟も同じ病気があり、2人とも2、3歳の頃から頻繁に入院を繰り返していました。ただ、自宅がある中津川には高度な医療を受けられるような病院がなく、往復3時間かけて愛知県春日井市の病院まで通っていました。

 3、4歳の子供を1人で病室に残していくわけにもいかず、母は仕事が終わってから毎日欠かさず病室に来てくれました。

 当時は、毎日泣いていたことを思い出します。面会時間が終わる20時には母は帰らなければなりません。息子達が連日、「帰らないで」と泣く姿は胸が締め付けられる思いでしょうし、息子2人に障害があり、頻繁に怪我をして入院したことについても、常に自分を責めていたでしょうから本当に辛かったと思います。

 外へ遊びに行く時、私も弟も歩けないため、母に抱えてもらって公園に行っていました。地を這って遊ぶ、私達兄弟の姿を見る周囲のお母さん方の視線は冷たかったようです。

 その時に私が母に「あの人達、ずっと見てるよ」と言ったらしいのです。その時に母は、息子を悲しませないように「あの人達は悪い人達だから見ちゃダメ」という苦渋の嘘をつきました。

 後日、再び公園で同じことがあった時、母はハッとして「あんな考えを子供達に教えるのはよくない」と、私達に「ごめんね。あの時言ったことは嘘なの。いつか温かい視線で向き合ってくれる人が増えるから、今は少し我慢しておこうね」と言ったのです。後年、この母の言葉の通りだったなと実感しました。

「花は枯れても、足は枯れない」


 小学校に入学する際、母は特別支援学校ではなく、普通学校で学ばせることを決めていました。特別支援学校の方が不便も不自由もないわけですが、母には社会に出れば多くのバリア、差別偏見があり、早い段階で対峙した方が後々、本人のためになるという考えがありました。

 小学校への入学が決まったタイミングで、母は幼稚園の園長先生にお礼の手紙を送ったのですが、それを園長先生が取っておいてくれていました。それを読むと、母が本当に様々な方に働きかけて実現したことだと改めてわかりました。

 手紙の中に、小学校での打ち合わせの後、当時の私が言った「先生の机の上に花があったけど、その花が枯れていた。花は枯れたら終わりだけど、僕の足は枯れない。僕の足は折れても折れても、また立って歩ける」という言葉が書いてありました。

 母は当時、ボロボロ泣いたそうです。私自身は、はっきりとは覚えていませんでしたが、子供なりに小学校に入るにあたり葛藤があったのだと思います。

 小学校入学後は、母が考えたように、苛烈ではありませんでしたが、いじめのようなものはありました。

 それでも、社会に出てから歩みを止めることなく生活できたのはバリアがある中、学校に通ったからだと思います。その意味でも父と母の選択はありがたかったですし、受け入れてくれた幼稚園、学校に感謝しています。

 子供時代の私は決して引っ込み思案ではありませんでした。ただ、気丈に振る舞っていたという自覚があります。なぜなら、私は周りのみんなに「遊びたい」と思ってもらえる存在でありたいと思っていたからです。

 男子は外に遊びに行くことが多く、私は必然的に女子といる時間が長かったんです。悪いことではありませんでしたが、男女分け隔てなく、みんなに一緒にいたいと思ってもらいたい。「手伝ってあげなきゃ」という存在ではなく、ただ「楽しいから垣内と一緒にいたい」と思ってもらえるようにしようと。そのために若干の背伸びはしていたのだろうなと振り返って思います。

 また、私は人生の5分の1を病室で過ごしてきており、学校に行けた時間は少ないんです。だからこそ、限られた時間の中で、少しでも友達と過ごせるようにと、一番心を砕いた気がしています。

 それでなくても、様々な場面で親の付き添いを必要とするなど、自分は周囲の友達と違うということを認識させられることが多かったです。だからこそ、至って普通だと示すために勉強をし、どんな話題でもみんなと会話できるようにすることを意識していました。

 こうした背景もあり、母は私達を厳しく育てました。ただ、愛ある厳しさだったと思います。

 例えば中学3年生の時、学校の課題で「人権作文コンテスト」にエントリーしたのですが、幸いにも県大会で入選することができました。作文を書く時、母は「自分の思い、考えを文章で表現することは、今後社会で生きていく上で重要なこと。だから、生半可な形ではなくきちんと向き合いなさい」と言いました。

 作文は夜中の2時、3時まで母が横にいて書いた記憶があります。私が書いたものに対して、母が「ここで句読点はおかしい」、「この接続詞では読みづらい」といった形で指導するわけです。中学生で夜中の2時、3時はスパルタだと思いますし、実際泣きながら書きました(笑)。

 この時に、自分の思い、考えを伝えていくという今の仕事につながる礎を築くことができたと思っています。人生の早い段階で人格形成ができたのは、母のおかげだと思います。

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