2021-01-06

坂東眞理子・昭和女子大学理事長が語る「母の教え」

坂東眞理子・昭和女子大学理事長・総長

「誠実で、一生懸命生きているということが伝わってくる人でした」と自らの母親を表現する、坂東眞理子氏。母・澄(すみ)さんはおとなしいながらも、子供達を愛し、夫とその母親を支えるために一生懸命だったという。その精神は「お与え様」。運命は与えられたもので、それを受け入れてベストを尽くすという考え方。子供の頃は反発したという坂東さんだが、今はその思いがわかると話す。

誠実に、一生懸命に生きる姿を見て


 私の母・澄は1911年(明治44年)12月28日に生まれました。ただ、当時は数え年だったため、届け出上は明治45年1月2日生まれということになっています。

 生まれは富山県水橋町(現・富山市)という漁業、農業の盛んな町で、「米騒動」の始まりとなった場所とされています。

 母は父親、私にとっての祖父にとても可愛がられて育ちました。祖父の母は明治時代に伝染病で亡くなったため、祖父を育てる人がおらず、養子に出る他なかったそうです。その分、自分の子に対する思いが強かったという背景があります。

 もう1人、母を可愛がったのが祖父の養母です。母を大事に思う余り、「よそにお嫁に出したくない」と言うほどだったそうです。母はおとなしく、可愛がられるタイプの性格でした。

 祖父は、母を東京で教育を受けた人と結婚させようと考えており、実際に婚約をしました。そして結婚のための衣装を買うために京都に行き、せっかく来たのだからと高雄山の紅葉見物に出たところ、祖父は心臓麻痺で亡くなってしまったのです。

 縁談を進めていた祖父が亡くなった後、祖父の養母が「大事な孫娘を東京には行かせたくない」と婚約をご破産にしました。その後、富山県立山町の造り酒屋に生まれた私の父・菅原喜徳(よしのり)と結婚することになったのです。

 母は、祖父が決めた東京帝国大学(現・東京大学)で薬学を学んだという人と結婚したかったというのが本音でしたが、父の養母が決めたことに対して自己主張をせず、受け入れていました。私は「お父さんと結婚しなければ私は生まれなかったんだから」と慰めていました(笑)。

 母が嫁いだ菅原の家では、私の祖母が非常に強い人でした。地域の婦人会会長を務めるなど外向的な人でもあったので、母は嫁として、家事全般を一手に引き受け、一生懸命に働きました。父は祖母とは正反対で非常におとなしい性格の人です。

 私は4人姉妹の4女として生まれました。当時は跡を継ぐ男の子が生まれなかったということで、周囲からは同情が集まったそうです。しかし母は非常に子供好きな人だったので全くがっかりもせず、「元気な、いい子供が生まれた」といって、とても可愛がってくれました。

 実家が営んでいた造り酒屋は、戦前はあまり商売が上手でなくても、地主でしたから小作農家からの地代としてのお米で楽に生活ができていました。しかし戦後は農地解放で、小作農家に貸していた土地や財産を失って没落し、暮らし向きが変わってしまいました。

 父方の祖母は、肩で風を切って歩くタイプの人でしたが、財産を失ってからはかなり優しくなったようです。ガンで自宅で亡くなる時に母に感謝して亡くなりました。それが母の密かな誇りでした。

 母がよく私に言っていたのは「お与え様」という言葉でした。自分の運命は与えられたものであり、それを受け入れてベストを尽くすという考え方です。

 正直な話、子供の頃の私はそんな母に対して「そんなに消極的だからダメなのよ。もっと頑張らないといけないんじゃないの」と生意気なことを言っていた記憶があります。

 しかし母は与えられた環境の中で、父を支え、祖母のお世話をし、子供達を育てていたのです。世渡りは上手くなかったかもしれませんが、本当に誠実に、一生懸命に生きていることが伝わってきました。

 また、両親ともに本をよく読む人達で、これは今の私に強く影響を及ぼしています。母は与謝野晶子の歌も大好きでした。

坂東さんの母・澄さん
坂東さんの母・澄さん


女性初の上級職として総理府に採用される


 子供の頃の私は、まさに「健康優良児」でした。学校の成績はよく、スポーツもできました。小学校、中学校と地元の公立に通いましたが、女子として初めて生徒会長も務めました。姉達が女の子らしく育ったのに対し、私は家族の中では男の子のような役割だったのかなと思います。

 姉達は地元の公立高校に通っていましたが、私は富山市内の進学校・富山中部高校を志望しました。当時は学区制があり、富山中部高校に行くためには住民票を移すなど越境しなければなりませんでしたが、母は「あなたが行きたいなら」と手続きをしてくれました。

 東京大学を志望した際も、親族の中には「東大に行ったらお嫁の貰い手がなくなる」という人もいましたが、母は「本人が行きたいと言っているのだから」と応援してくれました。経済的に余裕がない中、できることをしてもらったと感謝しています。

 就職の時期になって、進路に関していろいろと考えるようになりました。大学闘争の時期でしたから大学に残って研究を続けるという選択肢はありませんでしたし、男女雇用機会均等法以前でしたから民間企業にも入れない。ですから公務員になろうと決め、総理府(現・内閣府)に入りました。

 当時、総理府では女性の上級職を採用した事例はありませんでしたが、人事院の担当の方の紹介で入府できました。当時の人事課長からは「本省の課長は保証できないが……」と申し訳なさそうに言われましたが、私は「採用していただけるだけでありがたいので、一生懸命働きます」と応えました。

 両親は総理府への就職に関しては「安定した仕事に就けてよかった」と喜んでおり、中央官庁の仕事が激務であるとは考えてもみなかったようです。


2人の子供達を育ててくれた母


 母との距離が一気に縮まったのは、私が結婚して子供が生まれてからです。24歳で高校、大学の同級生だった夫と結婚し、2年後に長女を生んだのですが、当時は保育所も狭き門で、育児休業の概念もありませんでした。

 長女は9月に生まれ、翌4月に保育所に入所できましたが、その間は両親が上京し、交代で世話をしてもらっていました。さらに保育所に入ってからも熱が出て休まなければならないという時には母に夜行で出てきてもらい、面倒を見てもらったのです。まさに母に100%頼った子育てをしていました。

 長女が1歳くらいの時に、総理府の国際交流事業である「青年の船」の仕事で日本を離れたのですが、その間に父が大動脈瘤の破裂で急逝、私は残念ながら葬儀に出ることもできませんでした。

 父が亡くなった後、母は頻繁に上京するようになり、一緒に過ごす期間も1週間が2週間、1カ月になり、私が80年に米ハーバード大学に留学する時には同居していました。

 9カ月間の留学でしたが、「子供を残して親に任せるなんて……」と直接・間接に批判する人もいました。しかし母は変わらず、子供を愛し、喜びを感じながら育児をしてくれたのです。

 二女が生まれたのが、母が72歳の時です。その前までは「そろそろ富山に帰ろうか」と言っていましたが、「小学生になるまで頑張る」と言ってくれ、ついには二女が成人式を迎えるまで世話をしてくれました。

 母は2004年9月20日に92歳で、子供達に囲まれる中で亡くなりました。

 今は私も、与えられた場所でベストを尽くすという母の思い、「お与え様」の精神がわかります。様々な仕事を経験する中で、いいことばかりではありませんでしたが、常に「社会的な役割を果たしたい」という思いで取り組んできました。私に期待を寄せてくださった多くの方に応えたいという思いもありました。特に母の期待は大きな拠り所でした。

 支えになったのは、自分の考えや思いを表現させていただく場があったことです。『女性の品格』というベストセラーもありましたが、私にとっては33冊目の本です。その裏にあるのは売れなかったけれども、私にとっては大事な本達です。

 今は、大学で将来を担う女性を育てる仕事をしていますが、彼女達に伝えたいのは「100%完全な選択はない。まずやってみて、ダメだったら変えればいい。それぞれの場で全力を尽くす」ということです。私自身の経験からも、教えてもらうのではなく、自分で経験し、「気づく」ことが大事なのです。

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