2020-12-15

メガネスーパーを再建した、ビジョナリーHD・星﨑尚彦社長が語る「母の教え」

星﨑尚彦・ビジョナリーホールディングス社長

ほしざき・なおひこ
1966年東京都生まれ。89年早稲田大学法学部卒業後、三井物産入社。99年に休職して私費でスイスのIMDビジネススクールに留学、同年12月に三井物産を退社。MBA取得。以後、フラー・ジャコージャパン、ブルーノマリジャパンなどの代表取締役を経て、2012年に投資ファンドのアドバンテッジ・パートナーズの要請で衣料品販売製造・クレッジ社長に就任。13年6月メガネスーパー入社、同年7月社長、17年11月ビジョナリーホールディングス社長。

「非常にアクティブで、合理的な人です」と自身の母・洋子さんを評する星﨑さん。大学時代は自動車部でラリーに挑戦、結婚後は主婦として、三井物産取締役、もしもしホットライン社長などを務めた父・治男さんを支えた洋子さん。星﨑さんの挑戦も、何も言わずに見守ってくれたといい、今はその活躍を楽しみにする日々だという。

自動車部に所属するアクティブな母


 私の母・洋子は1939年(昭和14年)9月に東京・三鷹で生まれ育ちました。旧姓を松本といいます。元々、母の母(祖母)の実家は野方、父方は長崎の出身です。

 生まれてすぐは戦時中で大変だったようですが、終戦後は緑の多い武蔵野の地で野原を駆け回るわんぱくな女の子だったと聞いています。妹1人、弟2人の4人姉弟の長女です。

 母は小・中・高と立教女学院、大学は慶應義塾大学に進みました。入学後には「ラリーがやりたい」として体育会自動車部に入ります。同期の女子4人でチームを組み、大会で優勝したこともあったそうです。

 そのため、車に非常に詳しく、例えばエンストをした時などに、人力で車を押してエンジンを始動させる「押しがけ」も普通にできますし、大型自動車免許も持っていました。さらに、ラリーではクラッチを使うとクラッチ板が焼けてしまうということで普段から回転数でギアを変えていたのです。

『アサヒグラフ』の表紙を飾る
洋子さんの自動車部の活動が『アサヒグラフ』で紹介され、表紙を飾ったことも

 私は2歳上の姉、3歳下、9歳下の弟2人の4人姉弟で育ちました。実は私の1歳下に弟が生まれたのですが、肺炎で10カ月で亡くなってしまったのです。それもあり上2人は厳しく育てられましたが、下2人は非常に可愛がられて育てられました。そのため、子供の頃を思い返すと「放っておかれた」という印象を持っています。そのせいか、独立して家を出てからは数年に1回しか実家に帰らず、親との接点も持ってきませんでした。

 ただ、ここ数年は両親ともに高齢になったこともあり、父を病院に連れていったり、年に1回は一緒に温泉に行くなど接点が急激に増えました。2カ月に1回は実家を訪れています。

 自分で言うのも何ですが、私は姉弟の中で最も、物事と時間に対してきっちりしています。親から放っておかれたので、しっかりせざるを得なかったからだと思っています。そして、きっちりやるので手がかからず、さらに放っておかれるという循環が、最近まで続いていたと考えています。

 父・治男と母は同じ1962年に三井物産に入社した同期であり、慶應義塾大学の同窓です。母は文学部出身で、英語が得意ということで人事部の英語課という部署に配属されました。慶應出身者の同期会で知り合い、入社2年後には結婚しました。

 星﨑の家は、父も祖父も三井物産で、しかも鉄鋼畑の出身です。母の祖父も鉄鋼畑の人で、三機工業常務、鈴木シヤタア工業(現・鈴木シャッター)の社長を務めました。私から見て祖父同士が仕事の関係で旧知の仲だったこともあり、母のことを非常に大事にしていた母方の祖父も「星﨑の息子なら仕方がない」と認め、両親の縁談はとんとん拍子に進みました。

 ただお嬢様育ちで、結婚当初は料理が上手ではなかったため、文字通り「ごはんの冷めない距離」に住んでいた叔父達に連絡をして、晩御飯を持ってきてもらっていたそうです(笑)。

 これは私の母親の味にもつながっています。子供達のおやつのプリンや、「小鯵の南蛮漬け」など定番のレシピがあるのですが、私の時と弟達の時とでは味が違っていました。私の時はまだ料理が上達しておらず、味としてはあまり美味しくなかったのかもしれませんが、私にとっては思い出の味です。

 私は小学校から高校まで、成蹊学園で学びました。水泳や書道など、私達のためになると思われた習い事は積極的にやらせてもらいました。父の仕事の関係で英国に住んだのですが、帰国後に私達が英語を忘れてはいけないということで、弟と一緒に英語塾に通ったりもしました。

 英国滞在時にサッカーを始めましたが、帰国後は叔父の影響で中学からラグビー部に入ります。ただ、1年半で体調を崩し、退部しました。この時は「部活を辞めると言ったら怒られるかな……」と心配しましたが、母は何も言いませんでした。

 また、祖父が柔道家だったことから中学3年生の時に、当時成蹊中学校になかった柔道部を創部し、主将に就いた時も母は何も言いませんでしたが、毎日大きい弁当箱2箱分の弁当を作って送り出してくれたのです。

星﨑さんの家族写真
星﨑さんの母・洋子さん(左端)、星﨑さん(左から2人目)、父・治男さん(右側後列)

慣例に囚われない合理的な気質


 親からは放っておかれたと言いましたが、それでもどこかに「構って欲しい」という意識があったのだと思います。

 4、5歳で引っ越しを経験した際、1週間くらい目が見えなくなったことがありました。おそらく精神的なもので、私は本当に見えなかったのですが、医師から言わせると「気を引いているだけ」とのことでした。

 こうした気持ちは、成長するにしたがって素直ではない態度で表れるようになります。例えば母から用事を頼まれた時、やるのですが、必ずやる前に一言文句を言っていました。

 それをある時、母親から「どうせやるんだから文句を言わずにやった方が、相手の感謝の気持ちはより大きくなるよ。いいことをするのに、なぜ自分から価値を下げる必要があるの? 」と言われました。

 この言葉は衝撃でした。こうした素直ではない態度というのは、誰に対しても出てしまう可能性がありますから、今でも母の言葉を心に留めて、気を付けるようにしています。

 母は結婚以来、基本的には専業主婦でした。父が三井物産を退社して、自分の会社をつくってからは経理を見ていることもありましたが、フルタイムではありませんでした。

 ただ、私が中学1、2年の頃、父が会社との折り合いが悪くなり、今度こそ辞めなければならないかも……という時、母は突然、「赤帽」の仕事を始めたのです。車の運転は得意ですから、助手席にまだ小さい弟を載せて荷物を運んでいました。

 また、私が高校1年の時、母方の祖父が亡くなったのですが、葬儀の際、経費を削減するためにと親族が移動するためのマイクロバスは母が運転していました。父が会社を辞めたら家計を支えなければならないという思いが強くあったのでしょう。

 また、合理的な人でもあります。父が英国に赴任した際、母は一つだけ条件を出しました。それが「周りに一切、日本人がいない街に住むこと」でした。

 当時、駐在員の夫人同士のお付き合いは夫の役職による序列が色濃く反映され、母はそれを不毛だと考えていたようです。実際、私達はロンドンから車で1時間ほどの場所にある、有史以来初めてアジア人が来た、という小さな街に住みました。

 後に父が三井物産九州支社長に就いた際には、母は夫人の集まりを全て解散し、盆暮れの付け届けも廃止しました。人付き合いはいい人なのですが、そうした「慣例」は合理的ではないと感じていたのだと思います。

三井物産への入社そして新たな挑戦へ


 私は高校卒業後、早稲田大学法学部に入学します。卒業後は祖父、父に続いて三井物産に入社しました。父は自身が個性の強い人だったこともあって、息子が入社したら居づらい思いをするのではないかと心配しており、賛成していませんでした。

 しかし私は大学時代、父が三井物産から出向して設立した、もしもしホットライン(現・りらいあコミュニケーションズ)でアルバイトしており、会社の方々と接点があったこともあって、三井物産に入社したいなという思いがありました。

 母は就職が決まるまでは何も言いませんでしたが、入社後に「三井物産に入って欲しかったからよかった」と言ってくれました。母は私が不安に思っている時期には敢えて何も言わずに見守ってくれていたのです。

 そうやって入社した三井物産でしたが、私は新たな挑戦をすべく、私費でIMDビジネススクールに通ってMBA(経営学修士)を取得、三井物産を退社し、外資系を中心とする企業で社長業に取り組み始めました。父は現役役員の子供が辞めたということで、会社で相当に怒られたようですが、両親ともに何も言わず、見守ってくれました。

 メガネスーパー社長に就いた後、母は何も言わないので気にしていないのかと思ったら、記事で取り上げていただくと「お友達から聞いたけど、記事が出ているんだって? 」と連絡をくれるなど、嬉しく思ってくれているようです。

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