2020-12-16

【母の教え:メルセデス・ベンツ日本社長兼CEO 上野 金太郎】「とにかく諦めずに頑張る。働き続けた母の後ろ姿がわたしを奮い立たせてくれました」

うえの・きんたろう

1964年東京都生まれ。87年早稲田大学社会科学部卒業後、前年にダイムラー・ベンツAG(当時)日本法人として設立されたメルセデス・ベンツ日本に新卒採用1期生として入社。営業、広報、ドイツ本社勤務、社長室室長、2003年ダイムラー・クライスラー日本取締役(商用車部門担当)、05年販売店ネットワーク開発担当役員兼人事・総務ディレクター、07年副社長などを経て、12年より現職。



メルセデス・ベンツ日本に新卒1期生として入社し、社長に就任してからは年間新車販売台数の新記録を樹立してきた上野氏。そんな上野氏の父は起業家であるが、一方で「破天荒な人」でもあった。そんな父親を働きながら支え続け、上野氏のやりたいことをやらせてくれたのが母親だった。「言葉よりも、とにかく働き詰めだった母の姿が目に焼き付いている」と話す。母の生き方がその後の苦境を乗り切る上野氏の原動力にもなった。

外資系海運企業から独立した破天荒な父

 どんな状況になっても挫けることがない頑張り屋──。経営者だった父・宏を母・元は常に裏で支えていました。ですから、今も千葉で一人暮らしをしている80歳の母を思う度、ずっと働いていた母の姿が目に浮かんできます。

 九州生まれの5人きょうだいで、次男だった父は大胆な性格の持ち主で、外資系の海運会社に勤めた後、船員のリクルートを手がける会社を自ら起業。フィリピンや神戸などに支店や事務所を構えるほど、一時は大きくなりました。ですから、父は出張で海外や日本中を飛び回っていたため、家にはほとんど帰って来ませんでした。その父に代わり、家事や教育については母が一身に担っていました。

 父の型破りな一面としては、わたしが産まれて僅か6カ月のときに米国に旅行に連れて行ったようです。もちろん、わたしは覚えていませんが、そのとき母は日本に残されていたと聞いています。小学校1年生のときには米国に行って車を買い、米国を横断しました。このときも母は日本で留守番でした。

 父にまつわるエピソードで印象に残っているのがランドセル。わたしは生まれも育ちも日本で、ごく普通の日本人だったのですが、父の意向で小学校から東京都内のアメリカンスクールに通うことになりました。父は英語があまり得意ではなかったようで、言葉の面で結構な苦労をした思いがあったのでしょう。

 父にとっては一人息子であるわたしをアメリカンスクールに入学させたのも、自分と同じ目に遭わせたくないという親心があったからだとは思うのですが、アメリカンスクールに通う話は、わたしはもちろん、母も聞かされていなかったと言います。

 小学校に上がる前、母と2人でデパートに出掛けていき、ランドセルを買ってきました。憧れだったキラキラしたランドセルを背負えることにワクワクしていたのですが、家に帰ると父からは「必要ないから返して来い」の一言。悲しくて仕方がなかったことを覚えています。

 実際にアメリカンスクールに通い始めてからも、小学3年生くらいまでは英語が話せなくて苦労しました。毎日のように学校終わりや土日にアフタースクールで英語のレッスンをする日々。辛い日々ではありました、母からは「このままじゃ、つまらないでしょ?」と言われ、わたしも「その通りだな」と前向きになったものです。

 しかし、よくよく考えてみると、わたし以上に苦労していたのが母だったのではないでしょうか。アメリカンスクールのイベントや通知表は全て英語。同級生の保護者も米国人ですから、親同士のコミュニケーションも英語になります。母も英語を話せるわけではありませんでした。そんな言葉が通じない異文化の環境の中でも、母は泣き言一つ言わずに支えてくれました。

 そんな母は6人きょうだいの次女として生まれ、北海道の浜頓別町という田舎町で生まれました。上京して父と結婚したのですが、その後は働き詰めの日々を送ります。とにかく働いて父を支え、家計を助ける。母はそんな女性だったのです。

 父の会社が好調なときは父の会社で経理の手伝いをしていましたし、会社が立ち行かなくなりそうになったときには、販売員や事務員として会社勤めをしていました。父とは違って母は決して表舞台に出てくることはありませんでしたし、父に対する不満も聞いたことがありません。母はキャラの強い父にいつも振り回されていたような気がしますが、音を上げることは一度たりともなかったのです。

父に内緒でレーシングカートをやらせてくれた母

 しかも、わたしにとって父は怖い存在。ですから、父に不平・不満が言えない分、母に矛先が向かいます。でも、母はそれを受け止めてくれました。例えば、父から「命にかかわるから禁止だ」と言われていた登山やオートバイ。中学校に上がる頃、わたしが「レーシングカートをやりたい」と言うと、父に内緒で母はやらせてくれました。

 父も母もあまり「勉強しなさい」と口酸っぱく言う親ではありませんでした。父からは「ゴルフと中国語を勉強しておきなさい」と言われるなど、将来にわたって前広に物事を考えるところが参考になりました。できない理由を並べて何もしないよりは、いずれチャンスが来る可能性があることを教えてくれました。それなのに、なぜわたしをアメリカンスクールに通わせたのか。その辺りのつじつまが合わないままなのですが(笑)。

 一方の母は部屋の片づけや躾に関することに注意をすることはありましたが、それは世間並みだったと思います。人様に迷惑をかけずに、自分の興味を持ったこと、やりたいことがあれば、その道を勧めてくれる。

 ですから、わたしがメルセデス・ベンツ日本に就職が決まったときも母は喜んでくれましたし、新聞や雑誌でわたしのことが紹介されると、誰に教えてもらったのか、記事の切り抜きを送ってきたりしていました。

 実は父に負けず、母にも少々風変わりな面がありました。マクドナルドが東京・銀座に1号店を開店したとき、アメリカンスクールに通っていたこともあって海外のものには大変興味がありました。そこでわたしたちも車で銀座に繰り出し、母が商品を買おうとしたのですが、なぜかお店の人に通じない。詳しく話を聞いてみると、母は「マクドナルドをください」と店員さんに頼んでいたようです(笑)。

 ただ、わたしがサラリーマンの道を歩むことになったのは起業家だった父とそれを支える母の苦労する姿を見てきたからかもしれません。父の仕事が波に乗っているときは、父と一緒にミュンヘン五輪(1972年)の会場にも行きましたし、父の会社の本社も六本木に居を構えていました。

 ところが、次のモントリオール五輪時には、行くという話も出ることはありませんでした。さらに気が付くと父の会社が六本木から徐々に都内のはずれに移転。自宅も六本木から転々とし、持ち家から借家住まいになっている。資金繰りに苦労しているのだろう。子供ながらに「自分のわがままを言って駄々をこねてはいけない」と空気を読む人間に育っていました。

「働けなくてつまらない」

 ですから、中学3年生のときにアメリカンスクールから渋谷にある都立の中学校に転校すると決意したときも、義務教育を受けていないことに気が付いたということもあるのですが、家計の苦しさを察していたことも事実です。また、早稲田実業学校に進学し、高校2年生のときに一人暮らしを始めたのも2人に気を配ったからです。

 結果として、わたしが悪い方向にもいかず、現在のような道を歩んで行けるようになったのは両親のお陰だと感謝しているところです。父は約20年前、59歳という若さで亡くなりました。それでも母は常に販売や介護の仕事など働き続けていました。介護については、自分が介護されるような年齢になっているにもかかわらずです。むしろ今では「働くことができなくなってつまらない」と愚痴をこぼしているほどです。

 どんなに苦しい環境に置かれてもギブアップはしない──。これは言葉ではなく、ずっと働いてきた母の後ろ姿から学びました。メルセデス・ベンツ日本で厳しかった時代の商用車部門や乗用車部門に配属されても、とにかく与えられた環境で精一杯尽くしてきました。
 振り返ってみると、母の姿を見ていなければ、これらの壁を乗り越えることはできなかったかもしれません。

家族3人でエジプト旅行をしたときの母・元さん(左)
 家族3人でエジプト旅行をしたときの母・元さん(左)

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